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福島の大惨事から10周年に日本は沈黙

【以下は仏「ル・モンド」紙の記事に基づく翻訳です。元記事のURL:https://www.lemonde.fr/international/article/2021/03/11/le-japon-se-fige-pour-les-10-ans-de-la-catastrophe-de-2011_6072699_3210.html 】

大規模な津波を引き起こしたマグニチュード9の地震、その後の原発事故の後、2011年に22,500人近くが亡くなった。

3月11日(木)14時46分、10年前に日本を襲った地震と正に同じ時間、日本は沈黙した。日本中で観察された沈黙の1分に続き、東京で儀式があり、そこで天皇徳仁と菅首相が挨拶した。そのとき、海岸の砂浜にサイレンが鳴り響き、人々は海を眺めながら、手を合わせた。

日本は木曜日に、国全体を長期的に毀損した地震、津波、原発事故の3重の大惨事の日である2011年3月11日の10周年を記念した。

死者・行方不明者合わせて約22,500人という甚大な人的被害をもたらしたのは、マグニチュード9の地震発生直後に東北地方の海岸に押し寄せた、ビルのような高さの津波によるものだった。水没した福島第一原発では、6基の原子炉のうち3基の炉心が溶融したことにより、放射線の影響で町全体が何年も住めなくなり、何万人もの人々が避難を余儀なくされた。1986年のチェルノブイリ事故(ウクライナ)以来、最悪の原発事故となった。

「大災害による被害の規模があまりに深刻なため、悲劇の忘れがたい記憶が残っています。」天皇は表明した。「我が国は、国難ともいえる大惨事を何度も経験しました。」しかし、「先人たちは勇気と希望を持って、それぞれの危機を乗り越えました。」菅首相はそう語り、日本が「常に前」を見ていることを断言した。国連のアントニオ・グテーレス事務総長をはじめ、世界中から連帯のメッセージが寄せられている。

2月13日に発生した新しい地震
いわき市の沿岸の町にある久之浜のように、東北では終日公私にわたる追悼が行われた。そこで、78歳のクマキ・トシオは、2011年以降に建設されたコンクリート製の津波対策防波堤の上に昇る日の出を迎えた。「毎朝ここを歩いていますが、今日は特別な日です。」彼はそう言って、昇る太陽に向かって祈りを捧げた。

最も深刻な被害を受けた東北3県に含まれる宮城県では、大切な人がまだ見つかると期待する住民によって、捜索運動が組織された。10年前に津波で流された女性の遺骨が先週確認され、彼女の息子は耐え難い不確かさから解放され、ようやく悲しむことができた。

日本は三重の大惨事からいくつかの教訓を得て、新たに高い津波の壁を建立し、警報システムや避難経路を改善したが、危険は残っている。2月13日に発生したマグニチュード7.3の地震は、日本近海における地震のリスクが変わらないことを思い起こさせた。今回の地震は、2011年の地震が遠因と考えられ、100人以上が負傷した。

「復興の大会」と呼ばれる2020年東京オリンピックの聖火リレーが福島を出発する予定日まで2週間しかない時期に、この記念式典が行われた。パンデミックの影響で今年に開催が延期されたが、日本政府や主催団体は、このリレーが被災地に再び注目を集めるきっかけになることを期待している。

「目の前で人々が死にました」
宮城県仙台市出身の学生、ガンベ・ナユタは、自身の津波体験をもとに、防災関連のイベントで定期的に講演を行っている。しかし、彼は普段個人的に3月11日に黙想するようにしている。

「その日は、クラスメートを失った日です。目の前で人々が死にました。二度とあのような日が来ないことを願っています。」今日21歳になる若い男性は打ち明ける。しかし、今年はセレモニーに参加することを望んでいた。「ちょうど10年経った今、新たな視点で震災と向き合いたいです。」と彼はAgence France-Presseに語った。

多くの人にとって、この記念日は、数十万もの人々が居住し、福島県の面積の2%が立ち入り禁止区域になっているという、今なお痛ましい国家的悲劇を個人的に振り返る機会となっている。

禁止区域に残っているいくつかのバプテスト教会や礼拝堂で現在も説教をしていたサトウ・アキラ牧師は、黙想のために、これらの廃墟となった礼拝所の一つを訪れることにしている。「妻と2人で静かに震災の日々を振り返り、祈りを捧げます。」と彼は今月初めに話していた。

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