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正しいと思ってきたものが正しくない。

これまで正しいと思ってきたものが正しくない。

信仰の道に足を踏み入れて、聖書を読み、
RAPTさんのブログの有料記事や朝の祈り会の配信を拝聴するようになり、今までの自分の考え、価値観、こだわりetc…

正しくない!
間違っていた!

…愕然とした。

これまでは、
「自分の考えが正しい」
「自分は間違ってない」

そう信じ、あまりにもかたくなだったんだと。

周囲の人間との関係で苦しんでいるのは、相手が悪いから。
相手が自分勝手、自己中心だから。

機嫌が悪いとか、自分自身には関係ない理由で八つ当たりしてくるとか。

自分は間違ってないんだ。

相手がやっかいな人だから、自分が苦しめられているんだ。

職場でも家庭でも、こういった状況が度々あった。

すぐキレる人にはキレないよう気を遣い、自己中心な人には表面上は合わせながらも、陰口を言うことを当たり前のようにしていた。

「ストレスは発散させないと、参っちゃうからね〜」

他人への不満は、自分の中に溜め込まず、相手のいないところで陰口悪口を言って発散させる。

そうするのが良いと思って、そうしてきた。

しかし、陰で悪口を言ったところで、相手が変わるわけでもなく、結局何の解決にもならない。

どこかではそうだと分かっていても、自分の行いをなかなか変えられない。

聖書を読むようになり、RAPTさんの有料記事を拝聴するようになり、「悪口(あっこう)の罪」というものがあると知った。

確かに、自分が陰で悪口を言われるのは嫌である。

悪口を言うのは良いことか悪いことかというと、悪いことである。

頭の片隅には、ほんの少しだけ、こういった認識はあった。

それなのに、自分に都合が良いように理由づけをし、自分の行いを正当化してきた。

皆、自分が考えていること、やっていることが正しいと思って生きている。

しかし人間のやること考えること、必ずしも正しい訳ではない。

神様、主から見たら、いかにおかしいか、愚かか。

「自分が一番正しい」と思うことが高慢である。

「私はいつも周りに気を遣ってきたし、私は別に高慢じゃない」

聖書で、例えば、
「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、 「神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる」 からです。」
ペトロの手紙一 5:5 新共同訳

などと、高慢ではいけないということが、各所に出てくる。

しかし自分では高慢じゃない、と思っている。

だから、RAPTさんが「高慢の罪」について話されていても、まさか自分は高慢だとも思わずに、スルーしていたのだった。

「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。」
箴言 16:18 新共同訳

結局、自分の高慢さに気づかず、おごり高ぶり、痛い目に合う。

これまで、このようなことの繰り返しだったんだなと初めて気づく。

高慢になると、自分の間違っているところが見えなくなる。

常に正しいのは主だけである。

自分が絶対、自分の考えが絶対ではない。

自分がひとかどの人間だと思っていることがもう思い上がりである。

自分が正しい、自分は間違ってないと思うことが、道を誤らせる。

自分の考えが正しい、自分の考えが間違ってないとして、自分の考えに他人を巻き込むことが恐ろしい。

自分は高慢だった、高慢の罪を犯していたのだ。
長年生きてきて、やっと気づいたのだった。

どれだけおごり高ぶっていたのだろうか。

毎日毎日、自分の言動、自分の行いを祈りの中で思い起こすと、何かと高慢で自分中心になっていて、高慢の罪、自分中心の罪の悔い改めを祈り求めている。

高慢の罪は、自分ではなかなか認めたくない、わかりにくいものだが、聖書を繰り返し読むこと、RAPTさんのブログの有料記事や朝の祈り会の配信での御言葉によって、自分の高慢さや、自分中心であったと、気づくことができた。

自分を背伸びして大きく見せようとしてきた。
自分はこれこれのことができる。
過去、これだけのことをやってきた。

それは自分の力だけではなく、実は、信仰を持つ前から支えてくださっていた神様の御力によるのだ、そして周囲の人たちの支えも大きかったのだと、悟った。

恥じ入る。何という嫌なヤツ、愚かなんだろうと。

自分の力だけでは生きられない、
まずはこのことを認める。

これまでは敢えて、自分の悪いところ、間違っているところを見ない、考えないようにして、何かと他人のせい、環境のせいにしてきた。

けれど、人間関係の悩みは、自分の間違った考えにも原因があったのだ。

具体的には、同居していた姑の身勝手さや横暴さに振り回され、悩んでいたのだが、よくよく考えてみると、自分だってかなり自分中心で身勝手、高慢の極みだったのである。

世の中では、人間関係をよくしようと、心理学の知識に頼ろうとしたりして、ますます訳わからなくなったりということも多々ある。

私もこれまで、たくさんの心理学の本を読みあさってきた。

だが、「何か分かったような気になる」だけで、書かれているとおりに自分の受け止め方を変えたところで、自分自身の問題が何も解決していないのだから、悩みが解消するものではなかった。

世の中の心理学の知識こそ「良さそげなもの」ではあるが、真理ではなく、かえって事を複雑にしてしまっているのではないかと。

心理学だけでなく、世の中の学問の多くは、わざと小難しくされている。

「竹中平蔵みたい」
と、RAPTさんがブログ記事などでよく仰られますが、神様が教え示してくださる御言葉は、とてもシンプルである。

シンプルでありながらも、心に刺さる、
胸を刺し貫く強力な御言葉。

苦しくて認めたくない、受け入れたくない、
変わりたくない。

こういった自分の思いを断ち切って、御言葉に従って生きる。

今までとは違う道、
楽な道ではないけれど、
心が震えるほどの感動や喜び。

もう人生半ば過ぎた者でも、今日からでも、今からでも、成長を目指せる。

神様がRAPTさんを通して宣布してくださる御言葉、聖書の御言葉に従って生きようと、日々努力し続けることが、最良の生き方なんだと、信仰を持って生きることを決心してから、半年以上もたってやっと、気付くことができた。

高慢と自分中心、悪口の罪に気づき、悔い改めることで、人間関係の悩み苦しみから抜け出すことができる。

「神様とともに、主とともに生きます」と決心すること、
そこから始まる。

信仰を持って生きる、
神様からの御言葉を得て生きる、
神様、主と共に生きる。

この素晴らしさをどうか、一人でも多くの人に知ってもらいたい。

心からそう願っています。

どの記事にもそれぞれ、気づきと悟りのきっかけがあります。
https://rapt-neo.com/?page_id=30947

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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