私は curator を信じない


昨日書いた記事

「現実に「推薦文があったほうが売れる」という効果が認められるから付けてる」

という意見というかアドバイスを頂き,「そりゃそうだよな」と思う反面「それってどうなの?」とも思ってしまう。

「なんでかなー」と考えて,多分私は「curator」を信じない,からじゃないかと思った。

ある人を follow するとき, note の場合は「その人の作品が面白いから」というのが動機のほとんどだが, Twitter や Tumblr などは「その人から流れてくる情報に興味(interest)があるから」というのがほとんど。もちろん(リアルでの)知人はとりあえず follow するけど。

私は,作品や情報を目にするとき「誰が」にはほとんど興味が無いし,「誰が」を基準に情報をフィルタリングしてはいけないと思う。本の帯も同じ。

よく「今は情報過多の時代だから,情報の属人性をうまく使ってフィルタリングすべき」という意見を聞く。 curation/curator っていうのはそういう考え方に基づいた情報摂取の手段なんだと思う(私はそう理解している)。でもそれではダメなのだ。その人が信用できることと,その人の発信する情報が信用できるか(あるいは面白いか)というのは全く別次元の話なのだ。

これは「Web 2.0」が流行っていた頃に言われたことだが「情報のタコツボ化」というのがある。人同士が密につながり情報を回していくと「情報のタコツボ化」が起きる(典型的な例が 2ch と「はてな」)。 Web 2.0 時代(ゼロ年代)の課題は,タコツボ化を如何に防ぐか,だったのだ。

コンテンツがその人の property なのではなく,むしろコンテンツを作った人や消費している人こそがそのコンテンツの property なのだ,と考えるとコンテンツの見方が変わってくる。何故そうなるかといえば,時代の流れが「所有(独占)から共有へ」変わってきているからだ。故に情報やコンテンツの属人性は意味を失っていく。

(念の為に蛇足を入れておくと,これはいわゆる「属人性の排除」とは違うからね。「属人性の排除」というのは搾取の一種で,それは最終的に企業や組織による「知的独占」を産んできた,という流れがある。この辺については白田秀彰さんの「ほんとうの創作者利益について」あたりを読むと面白いと思う)