コンテンツ未満、アート以上

「私の感覚では,もうネット上を流通しているのはコンテンツ未満のガジェットのように見える。 Twitter の Tweet も Tumblr のエントリも,ひとつひとつを見てもコンテンツの体をなしていない。 Timeline や Dashboard を通して見ることによって複数の Tweets やエントリの束がコンテンツっぽく見えることはあるが。それは一種のジャンクアートのようなものかもしれない。ジャンクなのかアートなのかは見る人によって違うだろうけど。でもそこがネットで今一番面白い部分で,これまた著作権法的には微妙な話だったりする」
(「いまさら『CONTENT'S FUTURE』 — Baldanders.info」より)

これ、2010年に書いた記事。もう4年も前である。ちゃんとしたことも書けるんじゃん、私(笑) ちなみに『CONTENT'S FUTURE』は既に売りに出しました

なんで今さらこんな話かというと

「ネットで配信する1つ1つのコンテンツも短くなっていて、例えばYoutubeの動画は1分~3分の長さが主流。これがデジタルにおけるコンテンツの長さです」
(「“コンテンツ”がコミュニティーを作る――Casa BRUTUS編集長・松原亨とピースオブケイク・加藤貞顕が考える未来の雑誌 - ITmedia eBook USER」より)

てのはちょっと違うだろ、と感じたから。

コンテンツが fragmentation を起こしている現象はずいぶん昔から指摘されていて、たとえば東浩紀さんは『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)で「コミュニケーション志向メディア」と呼んでいる(これも昔感想文を書いた)。

あるテーマについて Wiki などで議論を行い、その結果を書籍などにフィードバックしていくというのは海の向こうでは既に当たり前に行われている。日本でも斉藤徹さんの『ソーシャルシフト』(2011)は Facebook のグループ機能を使って多くの人と推敲と校正を行っている(これは私も少し参加した)。

こうした coraboration あるいは peer production といったものは旧来の(書籍や音楽や映像などの)「出版業界」の alternation として機能するもので、業界としては規模の縮小と見られるかもしれないが、全体で見れば多様性の深化という意味で、むしろ歓迎すべき事態だと1ユーザの私は思ったりする。