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「頭」と「胴体」あっての「長い尻尾」

福井健策さんの「全メディアアーカイブ構想」とnoteの違い|tamami_tata|note」より

全メディアアーカイブ構想」の2011年は,アナログテレビが停波した年で, Kindle が日本でサービスインした年で, Winny 作者の無罪が確定した年である(そしてもちろんあの大震災の年でもある)。ある意味「ゼロ年代」の終わりを象徴する年だったかもしれない。

個人的には「全メディアアーカイブ構想」はあまり支持しない。いや,今までにそういう話はいくらでもあったのよ。でも実現したためしがない。「大人の事情」ってやつで。それよりは古くから地道な活動を行っている「青空文庫」や少しずつ成果をあげている「絶版マンガ図書館」のような活動を支援し広げていく(特にサービス間の連携)ような方策を取るべきだと思う。

(全メディアアーカイブっていうとどうしてもボルヘスの「バベルの図書館」や「会議」を連想してしまうんだよなぁ)

そもそも日本がトップダウンでプロジェクトを進めてうまくいったことなんかないのだ(私たちの年代だとΣ計画あたりが心を抉る黒歴史である)。それは JASRAC や ACCS の仕事っぷりを見ればよく分かる。彼らは自身の縄張りを侵すものを激しく排斥する。トップの仕事は「縄張り(=商圏)を作らない」ことと「身内の邪魔をしない」ことである。

翻って note だけど,最終的にどうなるかは(今もって)まだ分からないが,かなり現実的なアプローチだと思っている。self-publishing(自己出版,自費出版じゃないよ)の雄といえば KDP(Kindle Direct Publishing)だが,これとガチで争うのはそう容易ではない(本家米国ではいくつかあるみたいだが日本で対抗できるのは楽天ぐらいだろう。私は楽天嫌いだけど)。だから「出版」という土俵に立つなら KDP のやらないことをしなければならない。その点で note はいい線いってると思うのだ。

もっとも note にはまだ long-tail しかないように見える。だから big-head や magic-middle を作ることは急務なのである(もっとも note の道具立てはまだ揃ってない気がするので,そっちが先だとも思うのだが)。また big-head や magic-middle があればこそ long-tail にも(見知らぬ他者が流入する)機会がある。

note の強みは文章・映像・音声といったものを渾然としたまま「出版」できることだ。しかも(これは KDP にはないと思うが) note は「ライブ感」が強い(「ライブ」は情報の溢れる現代社会においてもっとも価値が高いもののひとつ。何故なら「ライブ」そのものはパクれないから)。この強みを note 運営側がもっとうまく引き出せれば note は良いメディア(もしくは基盤)になりうると思う。