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「不安」を感じるメカニズム

さっきペースメーカと携帯電話の話を見かけたのでちょろんと解説してみる。

「リスク管理」あるいは「リスク・コミュニケーション」を考えるときに忘れてはいけないのは,一般の私たちがどのようにして「不安」を感じるのか,ということである。

これについては Slovic 等が1987年に発表した有名な研究がある。リスクの専門家や一般の人たちを対象に,原子力発電・自動車の運転・喫煙など30項目の科学技術や日常活動について危険だと感じる順に順位をつけてもらったものだ。

これによると一般の女性が最も危険とみなしているのは原子力で,次いで自動車,拳銃,喫煙,オートバイ... などとなっている。一方で専門家がもっとも危険とみなしているのは自動車で,次いで喫煙,アルコール飲料,銃,外科手術... となっていて,原子力は20位と低めの順位だ(ちなみに避妊薬については一般女性が20位,一般男性が9位,専門家が11位だった)。

(ここでは順位そのものではなく順位付けの解離に注目してほしい。なにが危険かというのは科学的知見や社会的トレンド等によって大きく変わるからだ。たとえば上記の研究では,専門家は飛行機よりも自動車のほうがずっと危険とみなしていたが,最近は知見が変わりつつある)

リスクには大きく3つあると言われている。すなわち

・科学的評価リスク(科学的に詰めて得られたリスクの大きさ)
・意思決定のためのリスク(社会の意思決定で用いられるリスクの大きさ)
・リスク不安(かなりの国民が抱く不安としてのリスクの大きさ)
(中西準子『環境リスク学』 p.185-186 より)

である。

ふつう専門家が「リスク」というときは「科学的評価リスク」を指している。これは脅威の大きさに生起確率をかけたもので,客観的な指標として広く用いられている(もっとも「脅威」と「生起確率」を,自身の恣意を挟むことなく「測定」するのは相当難しいのだが)。一方で私たち一般の人が感じる「リスク不安」はもっと感覚的なものだ。 Bennet [1999] はこうした「不安」の要因を以下の11の項目として挙げている。

① 非自発的にさらされる
② 不公平に分配される
③ 個人的な予防行動では避けることができない
④ よく知らないあるいは新奇なものである
⑤ 人工的なもの
⑥ 隠れた,あるいは取り返しのつかない被害がある
⑦ 小さな子供や妊婦に影響を与える
⑧ 通常とは異なる死に方(病気,けが)をする
⑨ 被害者がわかる
⑩ 科学的に解明されていない
⑪ 信頼できる複数の情報源から矛盾した情報が伝えられる
(吉川肇子『リスクとつきあう』 p.80-82 より)

またセキュリティ専門家の Bruce Schneier は,自著 “Beyond Fear”(邦題:「セキュリティはなぜやぶられたのか」)の中で「感覚的なリスク」の例として

・めったにない刺激的なリスクは大げさに考え、よくあるリスクは軽視することが多い。
・自分の日常と異なる状態のリスクは正しく評価できないことが多い。
・顔が見えるリスクは匿名性が高いリスクよりも強く感じられる。
・とろうと思うリスクは過小評価し、自分の意思ではどうにもならない状況ではリスクを過大評価する傾向がある。
・話題にのぼり、報道されつづけるリスクを過大評価する傾向がある。
(ブルース・シュナイアー『セキュリティはなぜやぶられたのか』 p.40-41 より)

と述べている。これも Bennet の11の要因と通じるものがある。こういった「不安」に関する事柄は「リスク認知」の問題として研究が行われている。

でも,裏を返せばこうした「リスク認知」のメカニズムは,私たちが「動物」として生まれた時から身についている「反射行動」なのだ。問題は私たちの「文明社会」はこうした動物的反射行動では対処できないほど「引き返せない」状態にあるということである。

冒頭に挙げた携帯電話の問題も同様である。本当は私たちはペースメーカーのことなどどうでもよくて,目の前にいる人が「見えない第3者」と会話をしている光景に対して「不安」と「嫌悪」を感じているだけだ。それは動物としては正しい「反射行動」なのである。それをペースメーカーやルールの所為にするのは明らかな「責任転嫁」である。それならばむしろ「私はあなたの行動に不快を感じています」と自分の気持ちに正直になった方がはるかにマシだ。(それによって事態が悪化する可能性もあるがw)

「リスク」感覚は(それがしばしば動物的反射行動と conflict するが故に)自然に身につくことはなく,訓練が必要なものである。本来は「教育」がそれを担うべきであると私は思っているが,学校教育のカリキュラムに「リスク」の項目はない。現代社会で生きていく上において(これこそが)必須の技能(skill)であるにもかかわらず,だ。ならば私たちは自力で学ぶしかない。

(ちなみにこれはいわゆる「情弱」の問題とは違う。あれは単に「モノを知らない」ことを(モノを知ってる連中が相手を侮蔑する目的で)言ってるだけのことだ。物理的・心理的に「密着」したコミュニティの中で包摂されない相手を排除しようとするのは動物として正しい反射行動である。しかし「知らない」こと自体は悪いことでも恥ずかしいことでもない。それでも「知らない」ことにどう対処するかは重要な問題である。学校とは違って「知らない」で済むほど社会は甘くないぞ☆)

ところで「優先席」の話だが,私は空いていればそこに座ることにしている。他に座るべき人がいないのなら(そして他に空いてる席がないなら)遠慮する必要はない。いつか「ルール」を盾にイチャモンをつける人が現れたら身障者手帳を見せて煙に巻いてやろうと思っているのだが,幸か不幸か,そのような「蛮勇」を見せる人に巡り合ったことはない。

こういうものは「お互い様」なので,たとえ優先席だろうが普通の席だろうが,自分よりしんどそうな人がいるなら席を譲るのが正しい「社会的動物」の態度であろう。