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懐かしい写真から  初等職業訓練学校の生徒たち

JICAのボランティアとして派遣された職場は、ペルー共和国ロレート州マイナス県イキトス市にある初等職業訓練学校Centro de Educación Ocupacional “Padre Jesús García”というところで、1987〜1988年の2年間教員として務めました。赴任した最初の年から30〜40人くらいの自動車整備コースのクラスを持たされて授業をしました。スペイン語もそれほど流暢に喋れる訳でもなく、これと言ったカリキュラムも無く、なんでも好きなようにやってくれというのが校長(エルネスト・ロサーノ・イグレシアス)からの依頼でした。カウンター・パートに当たるスペイン人のホセ・マルティネスは自分用のノートを持っていてその一部を以前は板書して学生にノートを取らせていたようでした。内容は、それなりに説明はしているようでしたがイラストや図など無いとイメージできないと、結局自分で授業用のノートを作ることにしました。

それを決めてからは日本から取り寄せていた月刊誌の「自動車工学」のエンジンの基礎講座のような特集記事を毎日次の日の授業分スペイン語に翻訳して、次の日は授業で使ってました。授業は午前8時に始まって午後1〜2時で終わりです。それを半年くらい続けたと思います。元々簡単な数学も教えて欲しいとも要望されていたので数学と内燃機関の座学を担当してカウンターパートのスペイン人は学生に混じってノートを取ってました、実習はエルマーノ(聖職者でもあるホセ・マルティネスの愛称)が担当しました。その年の学期が終わる頃には、ノートが数冊分になったので街でタイプライターとレター用紙を買って自分で手書きのノートのスペイン語を全部タイプアップしました。それを学生に告げるとコピーして欲しいと言われ、人数分を学校の秘書に頼んでコピーしたらアクリルホルダーのようなものでバインドして見た目は立派な教科書になっていました。

この学校には図書館がありませんでしたから、コツコツと自費で買い貯めていたスペイン語の自動車やエンジン関連の書籍や百科事典が多分100冊くらいになったから校長にお願いして図書館を作ってもらいました。本の管理をする秘書まで雇ってました。学校とは言っても授業の後や授業の無い土曜日はプロドゥクシオンと言って学校の設備や道具を使って町工場のような仕事を受けて収入を得ていました。きっと政府からは人件費くらいしか出ずその他の経費は自ら稼がなくてはならなかったと思います。私も協力してオートバイの修理を随分とやりました。しかし、あるとき気付いたのが土曜日の昼食どき、大体午後2時頃、教師が皆集まって校長室でビールを飲んでいることでした。お金が無くて皆協力して町工場のような仕事をしてるのに学校のお金で昼からビールを飲んでいることが我慢ならないほど腹が立ちました。良く考えれば校長として皆を労うつもりで少しばかりの学校の金をビールで使ったことは十分許される範囲なのに、それに気付かないほど未熟だったと後で反省しました。1年後くらいには自分が率先してビールを皆で昼から飲んでました。

1年制で卒業する職業訓練学校ですから2年目には新たな学生が入学します。1年目の時に私がやってた授業の噂、夜間コースも社会人向けにやってました。結構稼いで学校に貢献しました。2年目は私が作った教科書を使ってエルマーノが授業をやり実習も全てやることになりました。私は新たな整備室を作ってもらい、卒業生から引き続きアルバイトのような形でその整備室でプロドゥクシオン作業をやりたいものを数名雇って収入を得ることに専念しました。故障診断と整備方針を決めて手伝いの卒業生に作業をやってもらうやり方です。写真はその合間に撮ったものです。後ろに立っている3人、右からガブリエル・ウニャーピ、ソウサ・ナヴァーロ、そしてホセ・タンです。もう一人サンドバル・フローレスという卒業生もいましたが写っていません。サンドバルとソウサは今、この学校の教師です。

彼らはいつでも私に敬意を払ってくれてました。

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