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新疆ウイグルのウルムチを2度訪問

最近話題の新疆ウイグル、ウルムチを最初に訪れたのは多分1990年。西安での仕事を終えて空路でウルムチ移動を計画してました。西安空港は、旧空港当時です。

当時は、深い霧に覆われて季節によっては便が欠航することが頻発してたようです。その日も朝から深い霧に覆われてました。タクシーを利用しましたが、午前9時くらいだと思いますが、徐行で走るタクシーがどこを走ってるのか辺りは真っ白な霧に覆われて全く何も見えない。これは初めての体験でした。タクシーは止まり、到着したと言われて扉を開けて降りても周りは真っ白で何も見えない。同行してた香港人が手を繋がないと分からなくなると手を繋ぎ聞きました、「今、どこにいるのか?」すると「目の前が空港だ」と。ええっ何も見えない。じゃあ行こうと一歩踏み出すといきなり躓いた。香港人が「ここ階段だよ」と。ええっそうなのと、感で足を高めに持ち上げて階段を一歩づつ踏み締めて登り切ったところでうっすら空港建屋の入り口が見えてきた。振り返って外を見ると真っ白い景色で何も見えない。人の話し声だけがする世界でした。

結局、少し霧が晴れた午前11時まで待って欠航を知らされました。多分、西安〜ウルムチ便は毎日運航されて無かったと思います。代案で香港人が言って来たのは列車で移動しようと言うものでした。こちらは問題無い。夜の7時頃発車の列車でウルムチに向かいました。寝台列車の軟座を確保してそれから2泊3日の列車の旅が始まりました。

西安もシルクロードの出発点でイスラム色が特に屋台で感じられました。自転車のスポークを利用したケバブが普通に売られていました。列車の窓からは荒野がどんどん広がって二日目の夕方には万里の長城の西の端がずっと見えて、最後の小さな塔から石が大きなものからどんどん小さくなって最後は砂地へ消えていくような姿でした。

寝るか、食べるか、喋るか、外を眺めるかが基本行動でした。どうやら別の車両に日本人がいると聞いて話を聞くと、最近退職して自分探しか何かで世界を旅してるとか言ってました。ヘェ〜優雅な人がいるもんだと、その時は思いました。

3日目の朝にウルムチに到着しました。着いた時は太陽の加減から朝と思いましたが、既に時計は昼近かったと思います。北京との実質的な時差は3〜4時間くらいありますが、時計は同じです。時差を設けていない為です。だから朝7時なんて真っ暗で誰も外を歩いている人はいません。午前10時頃から街が少しづつ動き出します。夕食は、午後10時頃からが普通です。

ウルムチ市内の建物には漢字とウイグル文字の併記が目立ちました。当時は規制で漢字を併記しなければならないと聞きました。偶然、その地でピアノ教師の人と接点ができました。その人は黒竜江省で生まれ裕福な家庭で生活してた満州民族でした。中共の強制移住でウルムチへ転住させられたそうです。中共は、漢民族が主で満州族の影響を恐れて北京から遠い場所へ移動させたと聞きました。

仕事は、天山山脈に住む放牧民(多分モンゴル人やイスラム系)の発電機の使用実態を調査しました。トラックの荷台に乗って天山山脈の尾根伝いに幾つかの山々を走り抜けました。その時に見た山々に反射する夕日の美しさは素晴らしかったです。

今、外国人はウルムチへ入れないかもしれません。当時の印象は、これは中国じゃ無いでしょうと思いました。米国はウイグル人強制収容政策による人種浄化に加担した中共の幹部の個人制裁を決めました。あれから30年、誰が今のウルムチを想像できたでしょうか? ラサでも同じことやってるかも知れません。ラサも2度訪問しました。

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