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ペルー日本大使公邸占拠事件の9カ月前

同事件は、1996年12月17日に発生しました。当時の大使は、青木盛久駐ペルー国特命全権大使でした。この事件が発生した二日後に私は、日本を出発して年末年始をペルーで過ごすために出国する予定でした。そして青木大使との約束を果たすため(挨拶に来るようにと、、)。

この事件が発生する9カ月前に出張でペルーを訪れていました。滞在してるホテルから当時の在ペルー日本大使館で秘書官をやっていた知人へメールか電話か覚えてませんが、要は現地の通産省に当たるところの局長クラス以上の人を彼に紹介してもらおうと連絡を取ったのでした。すると彼から大使が会いたがっているから、時間を都合付けて来て欲しいと頼まれました。こちらとしては大使なんかに用事は無いけど、人脈紹介してもらえるから仕方無しと大使館へ向かいました。

青木大使は、挨拶を済ますと「つい1カ月くらい前に、お宅の会社の社長さんが来られましたよ」と言い出し、そうか!社長は南米出張してたなあと思いだして、「そうだったですね」と話を合わせました。下座のソファに座ろうとすると、「そこは以前、社長さんが座ったとこだからこちらへ(上座)」と促されました。心の中では、流石だなサラッと上座に座らせたよ、、と思いました。それから延々2時間以上、青木大使と喋ってました。彼の外交官としての経歴から私の仕事キャリアや担当してる製品や市場など、さまざまなことがらについての話で、この人の頭はどうなってるのってな感じで、、。おまけに会った人全員の顔と名前を覚えると言ってました。同席してた秘書官の知人も「大使は、そうなんですよ」って言うから「凄いけど、どうしてなんですか?」とつい訊いてしまいました。すると大使は、「次会ったときに、○○さん元気でしたか?とか✖✖さん、久しぶりですね!って名前を言われたらうれしいでしょ? それだけですよ」ってな返事で、大使になるような人ってこんな人たち⁇と思ったものでした(当時で約2000人くらい記憶していると)。その時に年末、プライベート旅行でペルーで休暇を過ごす計画だと言うと、大使から必ず挨拶にくるようにと言われたのでした。

事件が発生した次の日、勤めていた職場では、先輩達から「おい、大丈夫かよ!行くのか?」ってからかい半分で言われる始末。最後には、人事部から電話が入って「大丈夫ですか?」とか言ってくるし、、。
結局、予定通りペルーへ向けて出発しました。メキシコシティ経由でリマ国際空港に飛行機が到着するとまだ移動中の機内の窓から真っ白いジャンボ機が2機、駐機しているのが見えました。あれっ?南米でジャンボ機持ってる航空会社はブラジルのヴァリグ航空だけだけど、白って⁇と思ってたら尾翼に赤丸が、、、そして機体に大きく「日本国」って書いてありました。橋本竜太郎首相が来てるんだ、と瞬間に思いました。やっぱり現地は、大ごとなんだな~。空港からホテルへタクシーで向かっている途中で割と大使公邸に近い所を通過した時、心の中で「大使、約束果たせずごめんなさい」と言いました。行けば、飛んで火に入る夏の虫ですものね。公邸付近以外は、まったく通常のリマでした。

MRTA(トゥパック・アマル革命運動)は、テロリストと言うより労働組合員なのです。皆、ただの労働者なのです。企業経営者相手のゼネストの延長気分だったのではと思います。1980年代に猛威を振るったセンデロ・ルミノッソ(毛沢東主義の暴力による共産革命を目指す)とは、まったく違った性質のものです。しかし、チェ・ゲバラやフィデル・カストロのような革命ヒーローにあこがれる人が多く(二項対立で洗脳されているから)、彼らも革命者気どりだったと思います。

しばらくリマに滞在するので、ホテルから日系人が経営しているペンションへ移動しました。そこで会った日系1世のお婆さん(経営者)と夕食時に会話することができました。彼女は、つい二三日前に大使公邸から解放された捕虜だったのです。彼女は、同時に捕虜になった息子が持病を持っているからMRTAのメンバーに治療の為に息子を外に出して欲しいと言ってなんども断られたけど、最後はMRTAも根負けして「分かった出せ、ついでにお前もでていけ!」と煩がられてだされたのよ、、と笑い話になってました。日系1世(日本人)は強いと思いました。

事件では、仲介役としてクスコの大司教シプリアーニが登場します。それでも結果、全員が射殺されます。メンバーの顔は、銃も打ったことの無いような普通の労働者の男女でした。フジモリ政権の対テロ担当のモンテシノス国家情報局顧問と二人三脚での断固とした姿勢を見せたのは意義はありますが、亡くなった労働者たちは結末を想像もできないほど無知な労働組合員だったのかと思ってしまいます。彼らは戦闘も知らない労働者で最後は、特殊部隊が突入した時、慌てて無抵抗で投降したものの全員射殺されてしまいます。後にこの行為が問題視されます。

この事件の後、青木大使とは会う機会もありませんが、テレビで見たり雑誌で書かれている横柄なイメージはみじんもないことを私は知ってます。

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