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1987-88年頃のリマの風景 (セビーチェリア編)

1987年2月~1988年12月までペルーのアマゾン地域にあるイキトス市内でボランティア活動をしました。半年に1度の首都リマでの健康診断と同じボランティア仲間との再会など楽しみするような生活をしていました。

時代背景として、当時の大統領はアラン・ガルシア。社会は極左テロ組織センデロ・ルミノッソの爆弾テロや要人・外国人暗殺が頻繁に発生して、首都圏は午前1時から5時まで夜間外出禁止令(トケ・デ・ケダ)が施行されていました。経済は、ハイパーインフレ下にあり通貨のデノミ(ゼロ3桁を削除)のために名称がソルからインティにされました。そして突然、銀行以外での外貨両替が禁止になったりもしました。

首都のリマとは違って地方、それもアマゾン地域にはそれほどテロの恐怖はなく、リマに行く時だけは気を入れて注意深く(腕時計をしない、鞄を車道側に向けないなど)街をあるいていたことを覚えています。

半年に一度の首都への上京時の楽しみは、やはり食事でした。日本食他、リマの美味しい料理、特に貝、エビ、タコ、ウニ、コルビーナ、レングアードなどの海鮮のフレッシュライムジュースで〆たセビーチェでした。セビーチェに特化したレストランはセビーチェリアと呼ばれて午前中から昼食(午後3時頃)までの営業が普通だったと記憶しています。ミラフローレスの南隣のバランコには美味しいセビーチェリアが多くあり、週末の昼食は、だいたい何処も満員で評判の良いレストランではムシカ・クリオーヤをバンドが生演奏していました。ビールは、クリスタルかピールセン・カヤオの二大ブランドが市場を独占していました。

日本食でよく行っていたレストランは、ミラフローレスでは「博多」、テロで爆破されて撤退を余儀なくされてしまいました。そしてサンイシドロでは「ミカサ」、サンタカタリーナのカナダ通りの開高健の友人だったドン・ルーチョことルイス・マツフジさんが経営していた鮨屋「松栄」、日秘会館の大衆食堂のナカチ食堂、「ふじ」は一度だけ行ったことがあるかないか記憶が定かではありません。日本食は、新鮮な海産物を使いますのでリマは食材が豊富な場所でもあります。

庶民の食材の買い付け場所は、メルカードと呼ばれる市場でそこの魚屋は早朝から賑わっています。レングアード(ひらめ)、プルポ(タコ)、エビ、カニ、タイなどが並びます。カニはいわゆるマッドクラブで麻袋一杯で購入したり、エリソ・デ・マル(ウニ)など当時は現地人は食べてなかったのでこれも麻袋一杯買って食していました。

現在は、バランコもすっかり様変わりして洒落たレストランが多くなっています。素直にセビーチェリアと呼べる店も少なくなっているかも知れません。

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