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パコ・デ・ルシアを2度観る機会を得た

1988年1月頃、パコ・デ・ルシアはペルー国のリマのホテル・クリヨン特設会場でライブを開催したと記憶しています。その日のライブには、友人の田井知二さん(考古学者)に世界的にも著名なギタリストだからと誘われて行きました。恥ずかしながら私の当時の知識ではフラメンコと言えば、西郷輝彦が両手にカスタネットを挟んで歌ってた「星のフラメンコ」くらいしか思い付かないほどでした。

パコのギター演奏が始まって、直ぐに分かりました。このギタリストは凄いと、。楽曲が進むに連れてギター演奏の勢いが凄まじく、ギターから炎が噴き出すのではと思わせるほどでした。当時のパコのフラメンコ楽団は、カンテ(歌手)もバイラオール(踊り手)も居ましたがパーカッションはパルマ(手拍子)のみで今世界的にも知られているカホン(cajón:大きな箱の意味)は使っていませんでした。後にパコがインタビューではっきりと答えているのですが、このリマ公演で訪れた際に友人から贈られたカホンを大変気に入ってスペインへ持ち帰り、その後自身のフラメンコ楽団の重要なパーカッション楽器として重用するようになったそうです。

当然、他のフラメンコ楽団もパコが使い始めたカホンを真似てどんどん取り入れて今ではフラメンコ音楽には欠かせない楽器になりました。が、実はペルーの民族楽器だったのです。もともとフラメンコ楽団では使われていなかった楽器です。なぜならペルーの民族楽器で知名度もペルー国内でしられている程度でしたから、。ペルーにはスペインから持ち込まれて真似たチャランゴ(多分ギターの真似)って楽器もありますが、やはりスペイン人はペルーから色々持ち帰った歴史でしょうか?慣れてます(笑)。今では日本でさえどこの楽器店にも並ぶカホンはペルーの民族楽器ってだれが知っているでしょうかね。

パコ・デ・ルシアを観た二度目は多分10年後の1998年、キトでした。その年の地震で津波災害にあったエクアドル太平洋沿岸部を支援するため急遽で南米ツアー中にエクアドル公演をチャリティとして追加開催したのです。座席はステージに向かって右側の端に近かったですが前から5列目でパコの表情も見える位置でした。彼一人がギターを携えてステージ中央に置かれた椅子に座って軽く弦のチューニングをしてる間も約3000人くらいの観客は咳払いひとつせずにシーンっとしてました。客席に誰も居ないような静けさの中でパコが演奏を静かに始め、起承転結で演奏を終えると割れんばかりの拍手と喝采が鳴り響きました。目の錯覚でしょうが、彼が出てきて一曲目の演奏が終わるまで後光が見えてました。誰もが認める天才と同じ時間、空間を共有してる興奮は今でもはっきり覚えています。

パコが世界的名声を得たのは、もともと彼のファンだったギタリストのアル・ディ・メオラから呼ばれてジョン・マックラフリンとスーパー・ギター・トリオとして米国デビューしたことがきっかけだそうです。アルバム「Friday Night in San Francisco」 (1981年)で鮮烈なデビューをしています。特に、”地中海の舞踏 (Mediterranean Sundance) / 広い河 (Rio Ancho)(11:33)” 作曲:アル・ディ・メオラ / パコ・デ・ルシアの演奏。左チャンネルがパコ、右がアルで録音されています。凄まじい演奏でパコの気迫もそうですが、観客がなんだ彼奴はって戸惑いと最後にはそれが大喝采になるのが伝わってきます。

https://www.youtube.com/watch?v=bhK_GFNq0N0

残念ながら2014年2月にメキシコで亡くなってしまいます。スペインが誇る至宝だったことは皆が認めるところだと思います。今、彼のレベルを継げるのはきっとVicente Amigoだと思います。フラメンコは、歌が命です。そして踊りです。伴奏のギターは若手の仕事でしたが、サビーカスの時代からフラメンコ・ギターだけでもステージで演奏できるスタイルを拓いてきたのです。その後、パコが完全にフラメンコ・ギターを芸術の域まで楽団として押し上げています。ビセンテは、他の音楽とフラメンコの融合を進めていくかもしれません。

最後にパコ・デ・ルシアの名前の由来、彼の名はフランシスコ(Francisco Gustavo Sánchez Gómez)で、スペイン語でその愛称はパコになりますが、子供の頃の近所には同名の子供が沢山いてパコだけではどの子か分からないので母親の名、ルシアの子という意味でパコ・デ(の)・ルシアとなったようです。

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