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グアヤキルで伝説の人に会う その2

伝説の人、倉田さんは青年海外協力隊の1期か2期生としてアフリカのケニアに自動車整備で派遣されます。任期終了後、帰国せずに現地のT社のチーフ・メカニックとして勤めてたそうです。当時の月給2,000米ドルって言ってましたらか、どうでしょうか?同年代の日本のサラリーマンの倍くらいでしょうかね。その後、あることから帰国を決めて就職先を探したらT社とY社が候補になったそうです。T社は既に大きくて仕事は決まっているだろうから、Y社の方が自由になんでもやらしてもらえると思って就職したのでした。

当時のY社は船外機の開発を始めた頃、製品化から販路を拡げていく中で中南米市場開拓担当の駐在員として同氏は、ベネズエラの首都カラカスの5つ星ホテルの最上階ペントハウスを住居兼事務所として7年間滞在することになります。その間、南米中の国々に代理店網を構築して販売・サービスを充実していくことになります。そして並み居る競合(OMC、ジョンソン、エビンルー、マーキュリーなど)を抑えて南米で市場シェアNo.1にしてしまいます。小職が中南米を担当するようになった頃は、彼が見つけた代理店が既に活躍していた頃でした。特にコロンビアのEduardoño社(メデジン本社)は、優れた会社でした。当時のGerente general(社長)のJohnny Londoño氏は、倉田さんが駐在してた頃は、小僧だったとのことで倉田さんの前では直立不動になるくらい緊張(リスペクトで)してました。小職は個人的にもジョニーと仲良くなりました。

南米での功労で本社帰国後に管理職になる予定が、アホな上司が付いた途端、さっさと退職してしまいます。その時の事業部長、澤田氏は「倉田さんを皆で支援するぞ」と、退職後エクアドルで船外機のワークショップを開く計画の彼を事業部全員で支援したと言います。実際には、2000万円相当(市場価格5000万円以上)の船外機の部品を無償で送り付けます。澤田さんも倉田さんに負けず劣らずとんでもない人でした。船外機販売台数を世界一にした人です。取締役昇進を断って、マリンエンジン事業部長であり続けた人ですから、、。皆が慕う訳です。

ちょっと脇道へ、、。澤田さん(東大⇒住商⇒Y社)は、真っ赤なT社スープラで通勤してました。制服ユニフォームの前のボタンを留めてた姿を見たことがありません。取締役昇進を断った人は、後にも先にもこの人くらいだと思います。小職は、退職した先輩が開店したカレー店に他の先輩と週末の昼食に行ったとき、ばったり澤田氏が元部下のその店へ入ってきて私たちのテーブルに来て挨拶したのが初めての会話でした。「澤田と申します」「〇〇事業部の○○です、事業部長のことは良く存じ上げております」が最初で最後の接点でした。

倉田さんは、グアヤキルで個人事業を始めた時、エクアドルの代理店は百貨店で保守サービスなど一切やらない、新品を売った方が儲かるとの考えでした。同氏は、そんなことしてたらブランドの信用にかかわるから保守サービスをやるように何度も説得したそうです。そしたら、先方の社主から「それだったらお前がやれば良い、場所は提供するから」と言われ、それに応じたそうです。その場所が、大きな倉庫(家賃1米ドル/月)です。

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