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映画鑑賞の師匠は学生時代の英語教師

学生時代、特に一般科目の英語、ドイツ語他、多くの学生は授業に興味を持てない。その為、学生の興味を引き出そうと教師は、色々工夫した授業を行っていました。特に視聴覚教室を使っていた英語とドイツ語は、それぞれの言語の映画を教材として使って学生の興味を引くような授業を行なっていました。

英語の教師(上杉直樹教授)は、教材にマーティン・スコセッシ監督作品の「タクシードライバー」を使っていました。シーン毎のセリフが書き出されたプリントを学生に配り、最初はセリフを見ないで映画から直接聞き取るように促し、その後、プリントで確認するような進め方です。その後、セリフで使われている表現や単語の意味などを解説します。主人公であるロバート・デ・ニーロのセリフが中心でした。私は、このような英語の授業が面白くて、昼休みや放課後に英語教師の教官室を訪ねて映画の話をするようになりました。教官室には、名画(邦画、洋画)のビデオがズラリと本棚に並べられてました。ドイツ語の先生(赤毛勇教授)は、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督作品、マレーネ・デートリッヒ主演の「嘆きの天使」(ドイツ語の映画)を教材として使ってました。

上杉先生の教官室で先生がコレクションしていた映画ビデオを観せてもらえるようお願いし、それから毎日一人で視聴覚室の大きなビデオスクリーンとステレオスピーカーで映画を見て帰る日々が続きました。毎日1本を観るペースで続けました。この頃から映画雑誌「キネマ旬報」の購読を始めました。

先生から最初に黒澤明監督作品を観るように勧められ「羅生門」を観ました。これは衝撃でした、単なる娯楽として映画を考えていた17歳の私には強烈でした。一体なんなんだこの観終わった後の感覚は、、。それから「七人の侍」、「天国と地獄」、「生きる」、「酔いどれ天使」、「赤ひげ」等々。そしたらもう一人の巨匠、木下恵介監督作品を観るようにと勧められて「二十四の瞳」、「喜びも悲しみも幾年月」、「カルメン故郷に帰る」、どんどん紹介され溝口健二監督作品「雨月物語」、成瀬巳喜男監督作品「浮雲」、小津安二郎監督作品「秋刀魚の味」、「晩秋」、「東京物語」。当時のニューシネマからは今村昌平監督作品「復讐するは我にあり」、外国映画では、米国のジョン・フォード監督作品「荒野の決闘」、「駅馬車」、「我が谷は緑なりき」、フレッド・ジンネマン監督作品「真昼の決闘」、マイケル・カーティス監督作品「カサブランカ」、フランス映画はルネ・クレマン監督作品「太陽がいっぱい」、マルセル・カルネ監督作品「天井桟敷の人々」、「嘆きのテレーズ」、ジュリアン・ドゥヴィヴィエ監督作品「望郷」、イタリア映画ではフェデリコ・フェリーニ監督作品「道」、「甘い生活」、ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品「鉄道員」、「ひまわり」、イギリス映画ではキャロル・リード監督作品「第三の男」、スエーデン映画ではイングマール・ベルイマン監督作品「野いちご」などなど、サッと思い出すだけでもこのような映画を観てました。

その後、この英語教師は映画を観て感想を教官室で述べれば彼の授業には出席しなくても単位をくれると言ってくれました。それからは学校を抜け出して名画座映画館でよく映画を観て学校に戻って先生と映画談義をしました。よく黒澤明の映画では正義がテーマになってることを議論しました。色々な状況で主人公が取る正義ある行動、憧れました。その場にはドイツ語の先生、赤毛勇教授も来てました。生意気な学生だったと思います。将来、映画監督になるにはどうすれば良いのか?と考えてもいました。

卒業式の日には、当時よく出回っていたサントリーオールド(たぬき)を先生に贈りました。一時は、「教授会の及落判定会議で私の名前が上がっていたから出席数だけは落とすなよな」と、こっそり教えてくれました。また、時々やるナナハン通学も(250cc以下の通学利用が認められてましたが)ニヤニヤしながら「お前の250ccは、やけにデカいな⁉」と黙認してくれました。

オートバイ・メーカーに就職して四国に赴任してた間も毎週末映画館通いをしました。年に100本くらいの映画を観てました。転勤して磐田市に移動しても毎週末浜松で映画を見てました。ここでも年に100本くらい観てたと思います。既に8mm映画を2本くらい撮ってました。エルモ社とキャノン社の8mmカメラで撮影して、編集機やプロジェクターも持ってましたので、作品を作って上映できればと思っていましたが、やはり16mmフィルムでなければ上映に耐えられないとも考えていました。ちなみに劇場用は35mmでした。今は、デジタル・データですが、、。

Y社でJICAのボランティアに休職参加する事を決めて、当時、利用され始めたばかりのeメールで上杉先生へ近況報告しました。しっかり激励の返事を受けました。そこには「人と違う道を自ら選んで歩む苦労は、将来きっと糧となって帰ってくることでしょう、、云々」とありました。そのメッセージを印刷してノートに挟んでたまに読み直しながら2年間のペルーでのボランティア活動を終えました。

帰国後、復職までの期間(当時、仲の良い先輩が人事課長だったので好きなだけ休んで良いと言ってくれました)に母校に映画鑑賞の師匠でもある上杉先生を訪ねました。南米の経験談をしようと思ったのです。ところが教官室の場所が変わったのかなかなか見つからずウロウロしてるとドイツ語の赤毛先生とバッタリ会いました。「上杉先生の教官室はどちらかに移動されたんですか?」、「お前、知らなかったのか?」、「何をですか?」、「先生は癌で亡くなったんだよ」と、。これはショックでした。南米に居た間に他界されていたとは「まったく知りませんでした」。赤毛先生は、「そうか、ところでお前、今日これから予定でもあるのか?」「何もありません」、「じゃあ、俺のうちに来い」、「はい」。

赤毛先生宅で上杉先生との映画談義や南米での生活の話しの中でノートに挟んでいた印刷した上杉先生からのメッセージを見せました。赤毛先生は、何も言わずに読んでました。ドイツ語の先生とは、そこから退官された今でも付き合いが続いています。磐田市に戻り無事同じ職場に復職を果たしたころドイツ語の赤毛先生からメールが届きました。そこには、「貴君が上杉先生のメッセージをアマゾンまで持って行ってたまに読み直した話を聞き、感動しました。師弟愛とはこういうものかと、、。貴君の活躍を願う」とありました。

学生時代の映画談義から続くドイツ語教師との付き合いが、エクアドルから帰国後の失業中も続きました。失業認定日頃に帰国すると決まってキャンプなどに誘ってもらいました。福岡市内にある大濠公園の池で早朝二人で先生が授業を持っている時間までカナディアン・カヌーを漕いで楽しんだこともあります。

最後にお会いしたのは、RAJP社へ転職が決まった後、平成筑豊鉄道伊田線の旅を母校のOB会が企画したイベントに参加した時です。確か、直方駅から伊田駅までの貸し切り列車の旅でした。学生時代の恩師には感謝です。

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