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H・Y戦争の年に入社しました。

H・Y戦争と言っても何のことか分からない人がほとんどだと思います。国内オートバイメーカーのトップ2社の日本市場シェアが拮抗し、Y社がH社を追い越してトップシェアを獲得しようとした年に入社しました。

時はスクーター販売が全盛の時代、Y社はパッソル、パッソーラ、パセッタ(何のことか分からないと思いますが)などの女性向けスクーターが良く売れて、次から次にスクーターを市場投入してきました。入社研修を終えて配属された四国の高松営業所で働き始めた頃、ベルーガ、サリアン、ポップギャル、タウニー、ジョグ、キュートなどなど毎月のように新モデルが発表され、同時に中型系のXJ400、RZの新型、125ccスポーツスクータートレイシー、XZ400、XJ750フューエルインジェクションモデルなどなど。販売店店主から毎日のように電話で仕様の問い合わせがありました。

H社も同様に毎月新型スクーターを発表してました。これを業界ではH・Y戦争と呼んでたのです。新入社員の私は、営業所の皆はモデル名や仕様を覚えられるのだろうか?と不思議でした。展示会なども販売店を支援する形で週末は営業所からも派遣されます。決まって新入社員の私でした(経験無いから当たり前ですが)。

余りにも多くの新型スクーターの投入で営業所が契約してる倉庫はどこも一杯になり委託展示をお願いしてる販売店の店舗もスクーターで一杯でどうしようも無いような状態でした。こんな状態が半年以上続いた頃からだんだんと各営業所への販売目標(クオーターと呼んでました)が厳しくなり、店頭での値崩れが起き始めます。それでも供給過剰のスクーターは倉庫から減らず、遂に会社が倒産の危機に直面してると知らされます。展示会で遭遇するK社の人からは「お前んとこの会社、大丈夫か?」と訊かれたりしました。

当時、会社が取った緊急事態の対処は、
1. 社員2000名の希望退職者(肩叩き退職斡旋)募集
2. 全社員1人が家族・友人・知人へ3台のスクーター販売斡旋
3. 全社員新年度の給与一律5%カット
でした。
高松営業所では、私の先輩(上司:29歳くらい)が肩叩き退職になりました。当然、当時の本社経営陣は総入れ替えで(人を削減して居残る経営陣はいません)、臨時に楽器本社の社長が兼務するような事が1〜2ヶ月起こりました。

私は、入社した年に仕事を教えてもらってた貴重な先輩を失い、初任給から昇給ではなく5%カット(初任給より減給)で次年度が始まりました。それからは倉庫に長期眠ったままの山ほどのスクーター、スポーツバイクのキャブレター内の残留ガソリン(生産ラインで火入れしてラインアウト後ガソリンを抜かないため腐る)の洗浄作業を蒸返るような埃だらけの倉庫で延々と続けていました。販売店も強気の時でしたからちょっとでも不満があると良く怒られました。酷い店では工具のドライバーを投げつけられたことがあります。昔も今もとんでもない人はいます。高松と高知の営業所で計2年半の間に、普通の人の多分一生分、頭を下げて謝ったと思い込んでました(笑)。もうこれ以上謝るような仕事はしたくないと、。

楽しいこと(レースの企画や販売店のツーリング企画など)も一杯でしたが、勝手に経営陣が決めた方針/販売計画を一所懸命やってた末端の営業所の社員(先輩)が退職させられて、新入社員も給与の5%カットとは、驚きました。その時の先輩の上司に当たる課長は私に、「彼は資産家の家の婿養子だから」と自分なりに苦渋の選択だったと説明をしてきました。運命とは面白いもので、この課長は約10年後、本社の私が所属してた部署に主任として異動してきました(仕事ができないので半年くらいで居なくなりましたが、:この辺はY社はシビア)。私も主任(一番若い)でしたので向こうも驚いてました。

一連の緊急対策を会社が取った時、心に決めたことは、
1. 借金は絶対にしない。(身動き取れなくなるから)
2. 会社に退職を勧められる前に自分の意志で辞める。
の2点です。

Y社も会社として相当反省したのか、それからは二度と希望退職者募集や賃金一律5%カットなどと聞くことはありませんでした。経費一律カットなどもその後経営が厳しかった頃一度だけ3%削減があったきりでした。今は時代も随分と変わって働く人の価値観も変わってきてます。大手企業に就職できれば安泰など、私は就職した初年度から幻想だと思い知らされました。それからは、その会社でなければ経験できないような事ばかり(自身の経験と知識やスキル習得に繋がる)にチェレンジしてきました。自分から面白がってなんでもやる、やってるうちに本当に面白くなって気付いたら、その分野では詳しい人になってました。これがH・Y戦争のど真ん中で入社して学んだ事です。

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