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まだ消化できない

そこそこ多くの人が当たり前に飲み込んでいる常識とか空気とかを、17年生きてもまだ消化しきれてない。

人とお別れしたあとすごく悲しいし、悲しいから泣くこともある。でも時間が経てばいつのまにか悲しくなくなっていて、その人の不在を埋めるみたいに、その人のことを考えていたリソースで他のものを考えはじめる。
最近一番仲の良かった友だちが転校した。その人がいた教室の前を通るたび、ほんとうはいるんじゃないかって扉越しに中を覗く。こういうのも次第になくなるんだと思う。
時間が経ってわたしたちも変わっていく、なんとも当たり前。でもこんな簡単な世界の真理見たいなやつをいまだに受け入れられない。今を保存したい。その人のことすごく好きだった。この気持ちがいつのまにか手の届かない場所にいくのが辛い。

肉を食べるのが少しいや。
お肉は好き、だけど最近はあんまり食べたくない。
生き物の体をいただくってことにずっと無自覚だったのかもしれない。普段食べてる肉の赤い部分は本当は筋肉なんだよって友達に教えてもらってから、あー今食べてるのは筋肉なんだなって思う。自分の腕と見比べて、わたしをスライスしたら脂身だらけなんだろうなとか考える。
わたしは自分のことがあんまり好きじゃないから、自分の将来とか、どっちかというと忌避している。なんで生きてるんだろうなあって落ち込んでたら、お母さんはお肉食べて元気つけなさいって言ってくれる。生きたいってほどでもないわたしが自分に将来があることを嘆きながら、生きるために他の命を食べる。
食事を前にして肉を食べたくないって思うのは、いちばんの冒涜かもしれない。
狩猟時代なら、わたしは美味しく幸せに肉を食べてたと思う。人間に捕まるから食べられちゃうのだ。ハンターのお手柄、お肉美味しい!でも今食べてるのは、食べられることが運命付けられた家畜。肉を食べることに変わりはないので些細な違いかもしれないけど、なんだかなあってかんじだ。でも豚も牛も自由になりたいなんて考えたことないと思う。わたしが勝手に想像してるだけ。
あと植物だって生きてるっていう人もいる。きのこだって菌類。わたしは目がある生き物を食べるのが怖い。目があるならわたしと同じ景色を見方は違えど共有しているはずだから。でもそれだって勝手な解釈で、植物は生き物派の人に言わせたら、動物がかわいそうだ!っていうなら野菜も断たないと筋が通らない。
肉を食べたくなくても、わたしの体には動物性の栄養が必要で、健康のためにサプリなんかを摂り始めるかもしれない。いきるためには他の命をもらうことから逃げられない。わたしの幼稚な感性のためにそういうことから目を逸らしてサプリを摂るくらいなら、肉を焼いて食べたい。結局わたしの菜食主義者になりたい願望は、環境とかなんとか考えてるわけじゃなく、自分が他の命を食べて生きてるってことを忘れるためにある。

それからそれから、人間がお互いを利用し合って生きているのもいやだ。
去年の社会の授業で習ったこと。哲学者のkntはお互いを目的のために利用するんじゃなく、人間性を尊重し合って生きていきましょう!みたいなことを言ったらしい。(一応検索よけしておきます)
それと似たような?かんじで、私も友達ヅラされながら利用されるのほんとにきらい!
帰る人がいないから一緒に帰ろうって言われるのとか、食べる相手がいないからって一緒にお昼食べようって言われるのとか。
わたしは平生へらへらしてるし全然あかぬけてないし一人でいることが多いからナメられてるんだろうな。そういう隙間埋め要員として利用されることが多い。そういう人たちはたぶんわたしの人間性を認めていなくて、喋ったら喋り返してくれるおしゃべりインコのおもちゃくらいの認識だと思う。
クラス替えのあと、みんなポジション獲得のために動く。友だちが欲しいから、他の仲良しグループを崩したり、今まで話そうともしなかった人に話しかけたりしてる。少し気後れする。
とはいえみんな、友達は誰でもいいってわけじゃなくて、友達候補はたとえば好きな界隈が同じとかおしゃれ度合いが似てるとか、そういうのちゃんと選んで話しかけてる。たんに友達が欲しいってだけじゃなく、話しかけた人と(比較的)仲良くなりたいんだと思う。
わたしは0/100思考に走りがちで、どこまでが利用でどこまでが人間性の尊重なのかわからない。どんな出会いもそんなに美しくない。隣の人だから話しかける、とか、人間性を尊重してるわけない。でもいつのまにかその人の為人をしって、人間性を尊重するようになってるんだろうなあ。
いや、それでもやっぱり明らかに利用してくる人はいるわけで、わたしはそういう人たちの人間性を尊重した方がいいのか?そういう人を突き返す強さもないのでうんうん悩んでいる。あわれだ。

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