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読書感想文:うみべの女の子(浅野いにお)

みなさまご機嫌よう。3月中はとても忙しくてまったくブログ更新ができませんでした。いよいよ春が来ました、季節の変わり目ですが皆様体調は大丈夫ですか?

今日のエントリは、浅野いにおの漫画「うみべの女の子」の感想です。作品の内容からどうしてもセンシティブな内容になり、また作中のネタバレも含むので気をつけてください。また同作者の「おやすみプンプン」もこちらで書評を書いていますので、有料で恐縮ですがよろしければお読みください。

「うみべの女の子」は成人向け青年漫画として制作され、作中で多くの時間が生々しく丁寧なセックスの描写に割かれていますが、エロティックな描写を目指したと言うよりも、恋愛と性の芽生えに揺れる中学生の男女から大人にも通ずる普遍的な人間関係のゆらぎを描いたように見えます。


あらすじ

冬、中学2年生の佐藤小梅磯辺恵介は浜辺にいた。小梅は恋い慕っていた先輩の三崎から、オーラルセックスを強要された挙句に振られ、先程、磯辺との衝動的な性行為を済ませたばかりだった。小梅は未だに三崎を思っており、磯辺への恋愛感情はなかった。磯辺は中学1年生の時に小梅に告白し、現在まで小梅を思い続けていた。磯辺は小梅に再度思いを告げるが、小梅はどう答えていいか分からず、ひたすらに謝罪を返すのみだった。

翌日、小梅は学校にて三崎から呼び出され、前日の行為についての謝罪を受ける。小梅は三崎への未練から彼を咎めずに、改めて彼に交際を申し込むが、三崎は小梅に「タイプではない」と伝える。その日の下校中、小梅は堪らず泣き出してしまう。途中で磯辺と合流し、彼から、小梅が自分を思っていなくても構わないと伝えられ、家へと誘われ、小梅はこれを承諾する。この時期から2人は秘密の肉体関係を築くようになる。

Wikipedia「うみべの女の子」より抜粋

あのさ、自分のことを好きになった純朴そうな女の子にオーラルセックスを強要する男、高校〜大学にかけて何人もいたんですけど、本当にアレ何なんですか?私の田舎にも一定数いました。かなり嫌なあるあるで陰惨たる気持ちになります。

では、この作品の感想を3点にまとめます。

①タイミングの合わない好意の返報性

「私とセックスしたい?」の一言から始まった小梅と磯辺の関係性はセフレに近いですが、それ以上に情緒的なやり取りが多く、特定の関係性では表現できないものです。ラベリングできない男女関係を扱った漫画だと、最近では双龍の「こういうのがいい」を読みました。こちらはカラッと明るい関係(セフレならぬフリフレ)を描いていましたが、小梅と磯辺の場合は話が違います。特に海辺の田舎町の閉鎖的な同調圧力や閉塞感から逃れるように、二人きりの関係にのめり込んでいるように見えます。

最初、磯辺は小梅に好意がありました。小梅はその好意を利用し、磯辺を振り回し続けます。磯辺もキスをしようとしたり、付き合う意志がないか確認をしますが、そのたびに好意が受け入れられないことを悲しみます。ただしセックスをする関係は続いており、この辺で嫌な予感はしていたんですが、最終的には小梅が磯辺に対して強い執着を見せるようになりました。

好意とは受容です。人はだれもが受容されたいという欲求を持っています。「キモいと思われたくない」「褒められたい、認められたい」「抱きしめ合いたい」これも受容への欲求です。小梅の視点では磯辺は自分に好意を持っている=受容してくれる、磯辺の視点でも小梅はセックスしてくれる=最低限キモいとは思われていない、という歪な状態で受容し合っています。この均衡が保たれている間の二人はフラットで、とても楽しそうで輝いて見えます。ただし、小梅を受容していた磯辺はある事件(PC上の「うみべの女の子」の写真を削除されたこと)を期に反発を見せるようになり、また悲しいことにこれがきっかけで今度は小梅が磯辺に対して好意を見せ始めるようになります。好意に返報性があることは心理学でもよく取り上げられるトピックですが、そのタイミングが合わないことは大人の恋愛でもよくありますよね。

②定義されない関係のゆらぎ

定義されない関係というのは大変な快楽です。恋人だから浮気をしてはいけない、友人だからセックスをしてはいけない、みたいな正しさや間違いの定義の制約を受けないから、二人が良ければどこまでも望んだ関係になっていきます。望むだけ己をさらけ出し、相手の心に踏み込み、溶けていくような感覚があります。別の記事でも書きましたが、私はセックスとは非日常なイベントではなく(もちろんそういう場合も盛り上がるけど)雑談やコミュニケーションの延長線上にある行為だと考えています。例えば、お酒を飲みながらお互いの性格を語り合っても心の形はある程度推測できますが、セックスを介すことでその心の形や心の穴を直接手に取るようにわかることがありませんか?

ただし、その定義から外れた関係のスイートスポットは短く、長くは続きませんでした。小梅と磯辺の築いた形容できない関係は二人にとってとてつもない心地よさがありましたが、各々が自由にふるまったことから、上記の事件をきっかけに二人は離れていくことになります。

ねぇ磯辺、してもしても何か足りない気がするのは何でだと思う?

浅野いにお「うみべの女の子」
銚子マリーナから太平洋を望む

③ゆらぎを止めるのは意志か、時間か

関係のゆらぎは続き、小梅は再び磯辺に会いたい(以前のように受容して欲しい?)という思いから手紙をしたためます。私はこの手紙のシーンが強い小梅の執着を示していて別れが予感され、悲しさを感じました。小梅は身勝手だと吐き捨てればそれでおしまいですが、中学生でまだまだ状況の理解や言語化も上手くできずに書く手紙は気持ちはこもっているものの相手の心の中を想像した中身ではなく、それにもまた物悲しさを感じました。

一方の磯辺も「最後までお前に振り回されるわけにはいかない」と小梅とのキスを拒み、勉強頑張れよの一言で小梅から離れていきました。その後の海岸に響く小梅の慟哭は心にくるものがありました。かつて自分を好きだった人を好きになり、最後には結ばれなかった。これはただの破局よりよっぽど悲しく、簡単に受け止められるものではないでしょう。高校に進学してからの彼氏も、少し磯辺との連続性を感じながらも「下位互換」感があり、悲しさをさらに引き立てています。小梅と磯辺が結局、最初から最後まで一度もキスをせず終わっていったことにも驚きました。なんて話だ。

夜の湘南の海

あとがき:言葉に表現できない関係

所感を兼ねて少し最近の話をさせてください。私には小学5年生の頃に初恋をしましたが、その相手との関係は簡単に「同級生」とかで書き表せるものではありませんでした(押見修造「惡の花」の春日と仲村がかなり近い)。

そのことに私もその相手も満足をしていて、誰にも理解されない関係だからこそお互いに喜びを感じ、お互いに恋人にも見せない心の奥底を見せ合い、依存していました。

社会人1年目、22歳のときに関係が途切れました。私は「恋人」という決まった関係を相手に求め、それを相手は受け入れませんでした。最後に電話で別れを告げてから10年後、今年の2月に突然電話がかかってくるとは私も思っていませんでした。声は当時そのままで少し落ち着き、写真の見た目も、母親になった以外は腹が立つくらい可愛いまま、ほぼ当時のままでした。

そしてその会話の内容に私は少し悲しくなりました。要件を聞くと、来週の土曜日にとても遠方の街で久しぶりに会えないか、というものでした。「私が会いたいといえば必ず会いに来てくれていた。だから今回も言えば会いに来ると思っている」。相手にとっては上手く表現できない主従関係は今も続いていたか、また大したことのないうろ覚えの記憶だったのかもしれません。いずれにせよもう10年以上も前の終わった話なのです。

首都高 竹橋ICから代官町料金所方面を望む。この景色を眺めなから、仕事の合間によく電話をしていた。

言葉で定義できない関係をエモいと感じるのは若者の特権、なのかもしれないと思いました。大学の一限をサボって安アパートのワンルームで彼女とも友達とも呼べない相手とセックスし、のぼせた頭でタバコを吸う状況はその渦中「エモい」と思えても、同じことを30代でやってもイマイチピンとこないと思いますし、いい歳してそんなことをしていても後ろ指をさされます。短い人生なので、後ろ指をさされてでもしたいことはしたほうが良いですが、私はおそらくそこに価値を見出すステージはとうに終えてしまっている気がします。

すべての人がそうある必要はないですし、他人の定義した関係に自らを当てはめる必要なんかありません。でも私自身は、できるかぎり定義された関係の中に人間関係を収めたいと思っているようです。そこから逸脱した関係の中で感情を燃やしたり、感情を揺さぶられたりすることは価値があるけれど、物凄い体力と精神力を消費するからです。

ただ、そんな事言ったところで結局「友人」「家族」「恋人」も決められた定義の中にいるよう常に揺れ動いてるんですけどね。関係を定義する言葉は気休めにしかならず、結局全員が他人。家族だとしても、それが必ず一緒にいる理由にはならない。そんな中でなぜ私はその誰かに価値を感じているのか、なぜその誰かは私と一緒にしてくれるかなんて、誰も正確に言語化できないはずです。

これ以上はたぶん社会心理学や家族社会学の話になってくるからそちらに任せるとして、私はゆらぎの中で今ある人間関係を大切にし、一緒にいられる時間を大切にしたいと思います。どんな関係も、関係を名付けてもそうしないとしても、誰もがゆらぎながら最後は少し遠くに離れていくものだからです。

最後は書評からかなり離れてしまいましたが、小梅と磯辺の二人だけの部屋で過ごす時間はとても輝いて見えました。輝ける関係を見つけたなら、それが友人でも恋人でも二者間で理想的な均衡のポイントを見つけられると良いな、と漠然と思いました。それがこの漫画を読んだあとの読後感です。

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