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性格分析メモ、または恋愛=親との関係の"再放送"であるという話

皆様は小学生時代に「心のノート」と呼ばれる教材を目にしたことはあっただろうか?これは道徳教育に用いられた教科書で、複数のエピソードと、そこから得られる示唆を読み解く自由記述欄という内容で構成されていた。

小学生ながらに考え方の正解を押し付けられることを嫌った私は当時この「心のノート」を心底嫌っていたが、それから数十年が経ち、ひょんなことから大人版「心のノート」とも言うべき課題に真剣に向き合うこととなった。それがこの性格分析メモというエントリの内容だ。

これはとても私的な内容であり、ブログで公開するような内容ではないのかもしれない。今でもこれを公開すべきかクローズドにしておくべきかを悩んでいる。ただ、ここ十数年、社会人として人生を歩む中で処理しきれないほどの多くのエピソードが生まれ、そこから得られる示唆を読み解かねばならない時期が来たのは確かなのだ。もし、そんな私的な心理的探索の旅にお付き合い頂ける殊勝な方が居るのであれば、ぜひ一緒にこのエントリを読んで頂きたい。


何が人の心を形作るのか

この「大人版心のノート」と言うべき探索が始まったきっかけは、先日受けたタロット占いの結果だった。端的には次のような内容だった:愛情が重めの異性との交際を繰り返している(いわゆるメンヘラ?)。これを今後も繰り返すと将来、厳しい結果が待ち受けている。過去の恋愛の傾向を俯瞰して分析したことが無かった私はそれなりに衝撃を受けた。なぜなら、一回一回の恋愛には関係性はなく、それぞれ真剣に向き合った結果が次に活かせる、程度の考えだったからだ。

ただし、実感として恋愛がうまくいっていないことも確かだった。モテとは程遠いが、全く声がかからないわけではない。口説けないわけではないが、口説いて失敗することのほうが多い。きっと悪い彼氏では無かったと願いたいが、良い彼氏であればもっと長続きしたはずの恋愛もあった。過去の恋愛から共通項やその背景を分析し、将来訪れるかもしれない次の恋愛に備えて自分自身に向き合う必要性が出てきていた。

「愛情表現仮説」

分析の方法は次のようなものだった:A3の画用紙の中央に私を書く。その周囲に、私を構成する性格や単語を書き出し、特徴的なものから5つほどに絞った(ここでクリフトンテストのストレングスファインダーの結果も参考にした)。
特徴として見出せたワードが「独占欲」と「愛情表現」だったので、それを元になぜちょっと重めの異性との付き合いを繰り返すのかを、下に向かってなぜを繰り返すことで分析した。

なぜ重めの異性ばかり選ぶ?
→愛情表現が強めだから。なぜ愛情表現を確認したがる?
→相互に強い独占関係を結べるから。それを望むのはなぜ?
→独占欲を満たしたい気持ちが強いから。満たしたいのはなぜ?
→愛情を求める相手に対して不安を抱えているから。そうなったのはなぜ?
→幼少期に十分な愛情表現を受けなかったから。それが残っているのはなぜ?
→母親の愛情表現が欲しかったから。

最終的にこのように分解できた。幼少期に十分な愛情表現が受けられなかったから、それを目の前の恋愛に望む、これを「愛情表現仮説」と呼びたい。

※大学時代に教育心理学を専攻していた私からすると恋愛工学とか、メンタリストみたいなエセ心理学が嫌いだが、分析のために必要なので一旦このワードで統一して探索を進めたい。

親との関係のやり直しを求めて

仮にこの「愛情表現仮説」が一定の説得力を持つものだとしたら、ここに囚われて不適応な行動をとってしまったり、望まない恋愛の結果を得ている人は私だけではないのでは、と推測する。二村ヒトシ氏は著書「なぜあなたは『愛してくれない人』を好きになるのか」で、親が子供に開けた心の穴がその子供の心理や恋愛観を決定付け、その穴と向き合わない限りまやかしの自己肯定を続けることになる、と解説している。

この「愛情表現仮説」が当てはまる人が一定数いると実感しているのは、私自身がこの「心の穴」を利用してきた実感があるからだ。これまで言語化できていなかったが、私が繰り返してきた恋愛は次のようなものだった:

・私は特定のタイプの異性を好きになったが、これらの女性は親との関係がこじれていて、愛情表現を強く求めるタイプだった。
・私はこの「愛情表現仮説」をうまく言語化できていなかったが、体感的に会得していたので、相手の懐に入り込むために無意識に愛情表現を伝え続ける戦略を取った。
・特に父親との関係の”再放送”を望む女性は、私に対して恋愛感情を持った。晴れて交際が始まった。
・交際序盤はお互いが強い愛情表現を求めるために順調に進んだが、時間が経つとどちらかが愛情表現を怠り始めた。これは恋愛が愛情に変わる過渡期とも言えたが、この二者の組み合わせでは一方が愛情表現を渇望し始めて関係が拗れた。結果、破局した。
・別れた後、二者はそれぞれがまた強い愛情表現を示してくれる異性を求めて、作戦として愛情表現をする側に回った。

過去の恋愛の共通点を総括すると上記のエピソードにほぼ収斂される。ロクでもねえな。
「愛情表現仮説」に縛られた者同士の恋愛はおそらく、相手という存在を使ったお互いの親との恋愛なのではないか。それはとても虚しいことだし、親との関係の問題解決にはつながらないので、必ずどこかで破綻する。そんなことは誰の目からも明らかだろう。

「愛情表現仮説」を軸に課題を克服する

ここまで、私自身の私的なエピソードをできる限りメタ的な視点で俯瞰し、一般化することを試みた。結果得られた「愛情表現仮説」が正しかったとすると、対策自体は一気に立てやすくなる。因果が明確になればそれをコントロールすることも容易になるからだ。

考えられる対策は次のようなものだ。

  1. 親との関係に今一度向き合う。特に自分自身の心の中にいる幼少期の自分が成仏することを心掛ける。また、親とて人間であり他人だ。もし愛情表現が足りなかったのなら、なぜそうなったのか、当時親として何を考えていたのかを知る。

  2. 自分が、自分自身の親になる。自分自身に「自分には価値がある」「生きているだけで価値がある。それはテストの成績が良いから、良い会社に勤めているから、すごい資格を持っているからではない(社会的価値ではなく存在的価値を認める)」といった声かけをする。自分自身を甘やかすのではなく、罰するのではなく、父性的な厳しさや母性的な愛情を自分自身に与え続ける。

  3. 愛情表現を伝えるときは、それが相手からの愛情を求める目的でなく、シンプルに相手に愛情を感じる時だけにする。愛情表現を利用して恋愛関係を有利に進めようとしない。歯の浮くような話だが、本当に素直な気持ちで愛情を伝える。

仮説検証

ここからは、前節で立案した対策1〜3を実行してみる。

  1. 親との関係に向き合うにあたって、実家で母親との会話の時に過去を振り返る会話をした。そこで気づいたのは「私が子供の頃に愛情表現をきちんとしてくれなかったのはなぜか」と聞くことは、どう考えても親を傷つける聞き方だということだった。だから代わりに、当時何が辛かったのかを聞くことにした。
    得られた結果は、母親の自分自身に対する情けなさや不甲斐なさだった。片親である以上、父親役と母親役の両方を満たすことが合格点だと考え、それができなかったというところが情けなさにつながっていたようだ。

    それを感じた瞬間が、先月に親と妹と3人で駅前のカフェに入った時だった。何か飲む?と親に聞いてさっと会計を私が済ませてしまったのだが、それをみて母親はごちそうさまと言った後に「そっか、もうこの家で私がリードする立場じゃなくなったんだ」と悲しそうにボソリと呟いたのだった。私は母親のプライドを傷つけたのかと思い反省をしたが、それよりも「この家庭を率いて守らなければならない」という悲しくなるほど強い観念を母親は今日この時まで抱え続けていたのだと気づいた。その瞬間、母親の小さな背中に少し悲しさを感じて、自分の心の中で「愛してほしい」「大切だと言ってほしい」と駄々をこねていた幼少期の自分が成仏してしまった。母親より強くなったことで小さな自分が成仏し、晴れて私はただの30代のおじさんになったのだった。これは少し前から自分でも気づいていたが、30代になって愛されることよりも愛情を与えることに幸せを感じる性格に変化したと思う。

  2. 自分が自分自身の親になる、という課題は実のところ、すでに達成されていた。自分の考え方の癖を追いかけていくと、自分自身を律する気持ちがかなり強く、それもある意味「毒親要素」のある親だった。思った通りに従わない自分を責め、目に見えた成果を賞賛し、自分自身を追い詰める系の親に自分自身がなっていたのだった。

    そうなると必要なのは自分が自分自身の親になることではなく、親として自分自身の「これはやりたくない」「これはやりたい」「これは辞めたい」「これは好き」という声をきちんと聞いてやることである。これを実践していくと無理のある行動は次第に減っていき、生活や時間に余裕が出てくることがわかった。そして、自分自身を丁寧に扱ってやることは簡単なことでもいいとわかった。朝起きたら散歩をして陽の光に当ててやる。何年使ったかわからないバスタオルは捨て、ふわふわの新しいタオルで体を拭いてやる。今晩の自分のためにベッドメイクをしてから仕事に行く。自分自身を大切に扱えない私はずっと家族を大切にできていなかったし、家族を大切にできない私は友人や同僚、恋人や好きな人も大切にできていなかったことに気づいた。自分の親として自分を大切に扱ってやることは今も継続中である。

  3. 愛情表現を自分のためでなく、相手のために伝える、という課題はあまり実践の場面が少ない。というのも、私自身があまり恋愛の機会が多い方ではないからである。ただし、損得抜きに「りんごちゃんのこういうとこ好きやで」「やっぱりんご好きだわ」と言ってくれる友人がいて、こういう素直な伝え方ができるようになりたいなと思っている。この3つ目の課題が一番苦手なので、相手の良いところに気づいたらそれを恥ずかしくても伝える、という方法で練習中である。この課題の良いところは基本的に、伝えた私も伝えられた相手も両方が少し幸せな気持ちになることである。人生の幸せの総量が定義されていないのであれば、幸せと勇気をガンガン増やす方向で生きていったほうが良いに決まっている。これはアドラー心理学にもつながる話なので、これは今後個別の記事にする。

まとめ

このエントリーを書き切るのに実に2年がかかった。特に前半の文章は昨年7月ごろの博多旅行中に旅先のカフェで3時間ほど掛けて書いたものである。一体私は、せっかくの旅先で博多もつ鍋も食べずに何をしていたのか。ただ、この「愛情表現仮説」課題と向き合う強い動機は「今後、恋愛や人間関係で同じ失敗を繰り返したくない」というものである。

初めての失敗は仕方がないが、二度目の失敗は馬鹿である。そして私はその馬鹿を三度かそれ以上繰り返した。ならば、私自身に考え方の癖があるはずで、そしてその癖を持っているのは私以外にもいるのではないか、と感じたのでこのエントリーを公開した。次に私が臨む恋愛があれば、それが相手の心の穴につけ込んで愛情表現を利用する小賢しい関係作りでなく、お互いにお互いを助け合えるような穏やかで温かい、陽の光のようなポカポカとした恋愛になることを望む。また、このエントリーがネットの海を漂流して、似たような葛藤を抱えるどこかの誰かを救うことができれば、それはブログ趣味冥利に尽きるというものである。

以上

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