JKローリングと湊かなえの「精神的な暴力性」について

 Twitterで「JKローリングは小林靖子説」を提唱したところ、フォロワーさんが「いや、湊かなえです」と突っ込んできた。
 膝を打ち抜く思いだった。

 小林靖子さんはジョジョの奇妙な冒険シリーズ、仮面ライダーシリーズ、進撃の巨人シリーズなどの構成、脚本を担当しており、「死んだほうがましだと登場人物に思わせる」設定を用意する一方、「イケてる男の死に場所」はちゃんと作ってくれます。
 そこがローリング姐さんや湊かなえさんの「ひんやりとした恐ろしさ」とは一線を画していると言えるでしょう。

 ローリング姐さんは、弱いものからまず殺す。かわいい梟も殺す。キャッキャと戯れる双子の片割れも殺す。かわいい屋敷しもべもあっさり巻き添えで殺す。(ショックで持っていたお椀を落としそうになった)
 殺すリストでも作っているのか……と思っていたら「ハーマイオニーも殺す予定だった」と言う説を読み、青ざめました。
(すみません、ハリー・ポッターの原作の読みにくさから、ウィキペディアと映画に頼った部分がありますので、何かありましたらご指摘ください)
 と、言いながら、私は「イヤミス(嫌なミステリー)」の旗手、湊かなえさんの小説も怖すぎて「Nのために」しか読めなかったのですが、これも後味の悪さがすさまじい。
 様々な「N」の名を冠する人々の思惑が交差し、ある男性による夫婦殺人事件が起こる。誰がどの「N」であり、どの「N」のために悪意ある仕掛けを施したのか。その過程が静謐な筆致で描かれる。

 エピソードの一つとして、主人公の過去が一人称目線で描写されていく。
瀬戸内の島で何不自由なく、恵まれた家庭ですくすく育ってきた主人公。だが、ある日突然、愛人を連れてきた父に弟と母と一緒に追い出され、生きるために、弟、母のために、愛人に屈辱的な方法で頭を下げ続ける。そんな主人公をはために緩やかに狂っていく母。
「横溝正史ですやん」
 閉鎖的な田舎にありがちな地獄がそこにはあった。

 ローリング姐さんも、閉鎖的なホグワーツで実はスクールカーストを描いている。そもそも、ハリーは監禁されて育った子どもだ。
 監禁時代を経て、一転し、ホグワーツではハリー無双が展開される。ハリー様、あのハリー・ポッター……ハリー・ポッター=グリフィンドールへの教師からの贔屓と加点。ドラゴ・マルフォイのハリーへの嫉妬。いや、分かる、凄くマルフォイの気持ち分かる……
 ねえ、これ、なんていう「ライオット・クラブ」?(オックスフォード大学で約200年にわたって存在すると言われる、二万人から10人だけが特別に選ばれる選民的クラブ「ブリンドン・クラブ」をモデルにした舞台「POSH」の映画化。RIOTの名の通り、暴走、女遊びがステータスとして認められており、警察沙汰になってもそのステータスの高さによりお役御免になるとかならないとか)
 いや、言い過ぎか。
 閑話休題。
 ハリーと言う特別な存在、ハリーの強大なる血の物語、学園カースト、そして後半に至る過程でのハリーとその仲間たちの冴えないパーカー姿、延々と続くヴォルデモードとの戦いに辟易としていたので、新シリーズ「ファンタスティックビースト」一作目には夢中になった。
 それは主役のニュート・スキャマンダーが29才の大人であり、ホグワーツで底辺とされるハッフルパフ出身であり、魔法動物を庇護する側の立場であり、魔法動物庇護に夢中になるあまり、人とのコミュニケーション能力は今ひとつであるにも関わらず、仲間を作り、「魔法動物と弱い者のために」奮戦したから。衣装もアカデミー賞を受賞するほどの美しさ。何より主役のニュート・スキャマンダーに、「博士と彼女のセオリー」でスティーヴン・ホーキング博士を緻密な計算で演じきり、アカデミー主演男優賞を獲得したエディ・レッドメインの演技力とコケティッシュな美しさがあったためです。
 そして、まさに「ファンタスティック」で「コミカルな魔法動物」が現れ、最後には爽快な物語として終焉を迎えたすがすがしさ。
 ところが。
 やはりローリング姐さん。手は緩めない。
 二作目「ファンタスティックビースト 黒い魔法使いの誕生」ではハリー・ポッターの世界観が継承され、ハリーの時代から遡り、これまた血縁、ファミリーツリーの物語が繰り広げられる。前作で愛らしい未来を感じさせたカップルの片割れは心が読める力に疲弊し、また「人間と魔法使いは結ばれない」と言う障害の前に闇落ちしてしまう。
 罪を背負った孤高で若く美しい女は、二人の男に「愛しているわ」とどちらに告げるでもなく、命を落とす。
 若い頃、深く「血の誓い」を契り合った者同士は、その誓いゆえに、思想を違えたはずの相手を思い続ける。

 この作品を鑑賞し終えた時「やっぱりローリング姐さんはファンを言葉の鞭で殴って試してくる人だ……」と脱力しました。

 ローリング姐さんはお母様の介護の中で「死」について直面し、それをハリー・ポッターに反映したそうです。湊かなえさんについての詳細は分かりませんが、淡路島在住とはお聞きしております。淡路島は今でこそ近畿の楽しい遊び場ですが、様々なしきたりがある悪い意味での「田舎」の一面があることは聞き及んでいます。

 ちなみに「Nのために」は、すさまじい愛の物語です。愛する人のためなら、主人公はどんな手段を採ることもいといません。それはスネイプ先生にも通じるものがありますね。人生を賭けるほどの愛。それは人を殺めるくらいに強い思いです。

 人を愛すること、死にゆく血縁者を見守って介護していくこと。その現実の痛み、悲惨さ、そういった小さな積み重ねに触れやすいのは女性です。女性のほうが突き放した作品を描く傾向があるのは「覇王別姫」の映画(男性監督)と原作(女性作者)の終焉の示し方の乖離にも示されています。ただ単に性別=女として生まれただけでは、そのような物語の書き方はしません。女であることによる生きにくさ、「女」と言う存在が社会において、どのような役割を担っているのか、その視点は物語を語る上で外せないのです。

 日々の暮らしの中、感じる生死、強いエゴにも近い愛。そこに、ほの暗い闇は宿るのかもしれません。介護、そして死への闇を見続けたローリング姐さんの作品と、湊かなえさんの閉鎖的な空間にひしめきあう憎悪と愛とが、筆者の中で「精神的な暴力性」にリンクするのです。

 アヴァダ・ケダブラ!!

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