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架空のロシア小説の冒頭部分

 地主パーヴェル・ステパーノヴィチ・イシューチンは実に爽やかな気分で目がさめた。彼が気持ちよく柔らかい欠伸をしているところへ、従僕のワシーリーが顔を洗う為の洗面器具を手にして入ってきた。
 「どうだいワシーリー、何か変わったことはあったかい?」
 パーヴェルはワシーリーからの「何も変わったことはごぜえやせん。万事がうまくいっとります」という返事を受け取ると彼を下がらせ、寝起きの一種の瞑想状態へと沈んでいった。「自足」。これぞ今の彼を表している言葉だった。
 「そうだ。今の俺に足りないものはない。ここまで持ち直すのにどれほど時間がかかったことだろう!」
 彼の父ステパン・イワーノヴィチは田舎地主に相応しく大の訴訟好きの偏屈で、あらゆることを縺れさせる達人だった。近くに住んでいる地主で彼と係争状態に無い人間は殆どいなかった。酔っ払っては事あるごとに農奴を鞭打ち(「あの連中はああしないとすっかりダメになるんだ」とは彼の言い分であった)、ワシーリーもその災難から逃れることはできなかったほどである。すっかり勝手向きを崩壊させた父の死後、パーヴェルは役所を辞めて田舎へと帰ってきた。パーヴェルは地主らしからぬ実際的才能で、即ち忍耐力をもって困難に立ち向かい、次第に持ち直していったのである。この時の努力(いや苦行とさえ言っていい)を思い起こすたびにパーヴェルの自尊心は満たされていった。今朝の瞑想もそうである。「己は実際家である」という意識がどれほど自尊心の満足に寄与するか、驚くべきことである!
 幼い頃から父の横暴を見て育ったパーヴェルは自然と農奴たちに同情するようになり、従僕のワシーリーにも丁寧に接するように心がけていた。決して恩着せがましいわけではないが、この点でパーヴェルが「ワシーリーはきっと驚きとともに俺に感謝の念を抱いているだろう」と想像することは罪のないことである。しかしどうであろう!ワシーリーは「若旦那」については常に次のように思っていたのである。
 「あんまりにもあの人は優しすぎる。ワシらの仲間は優しくするとつけあがるもんだから適度に脅かさなきゃあならん。前のステパン・イワーノヴィチ(あの方の魂に安らぎがあらんことを!)はそこんとこを分かっていらっしった。旦那は人を恐れさせなきゃあならん」
 これはたしかに一つの謎だ。旦那は常に下男どもの畏怖の対象でなければならないと信じ込んでいるこの男は、幼い頃から打たれ続けた人間が当然行き着く果てのようでもある。だからパーヴェルの想像は全くの見当違いだったのだ。それにパーヴェルは「農奴の問題」でも自惚れをしていた。確かに彼は農奴をやたら打ちはしない。しかしそれだけで己をヒューマニストだと感じるには足りないのである。彼は経営を持ち直した。そしてその際「自分のところの農奴がどれくらい増えたか」を嬉々として数えていたのである。今でもこのことを考えるだけで彼はウキウキとするのだ。

 




 
 
 
 

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