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【取り戻すための音楽回想録】vol.5 「なごり雪」と僕の1992年

どうも映像ディレクターの菊池です。

また忘れてしまった遠い記憶を、音楽をきっかけに自分の元に取り戻していきたいと思います。

今回は、バブル経済が崩壊し始めたとされる1992年。大好きだったCHAGE and ASKAの92年のヒット曲「LOVE SONG」を聴きながら、忘れてしまった遠い記憶を自分の元に取り戻していきたいと思います。

CHAGE and ASKA「LOVE SONG」

前回Vol.4で書いたとおり中学校時代の丸刈り3年の刑期を終えて、地元の普通高校に進学した僕は“イチクミ”に入った。

僕が通っていた高校の1年1組は“イチクミ”と呼ばれ、大学進学を目指す成績上位の生徒が入れる進学クラスだった。基本的にこのクラスに入った生徒は国公立大か難関私大を目指すことになっていた。地元のいくつかの中学校から勉強のできるやつが集まったクラスの中で、僕の成績は真ん中より下くらいを漂った。国公立大学を目指していたものの受験勉強は捗らず、3年後には国公立大ではなく埼玉の私大に入り親に負担をかけながら上京することになる。今回はその少し前の高校1年生のころ。

僕は入学してすぐ部活にボートを選んだ。細身の流線形の舟に乗り、オールを漕いでレースをするマイナーな競技。青森県内にボート部の数が少なかった事もあり、うちのボート部は全国大会の常連で校内では目立つ存在だった。

いわゆるザ・体育会系。運動が得意だったわけでも、体格が良かったわけでもなく、身体を鍛えることにも興味はなかったし、持久走も嫌いだった自分には縁遠い世界、川での事故も起こりかねない事から親からは入部を反対された。でもそれを何とか説得してまで入ることにしたのだった。

これには、同じ”イチクミ”の友達で中学時代に同じソフトテニス部だったカイセも当然そのままソフトテニス部に入るものだと思っていたらしく、かなり驚いていた。カイセは中学3年のときには県内で優勝して全国大会に出場していたほどの実力者。僕は全く上手くなかったが、たくさんいた同学年の上手い仲間は進学をきっかけに散り散りに別れた。僕が近くに残った唯一の存在だったため、カイセは寂しく思ったかもしれない。

とにかく、誰から見ても不釣り合いな部活になぜ入ったのか?生徒会長だったこと等、中学時代を引きずりたくなかった気持ちもあるにはあったが、理由の一つは新入生歓迎会にあったように思う。

イルカ「なごり雪」

新入生歓迎会では、体育館に全校生徒が集まり、各部活が待ち時間の中で新入部員勧誘のプレゼンを行なう。シンプルにマイクで話すプレゼンが多い中、大トリで出てきたボート部はサービス精神旺盛で華やかだった。ざっくりとしか覚えていないが、こんな感じだった。

笑点のテーマで部員たちが登場〜円楽役の先輩が司会をし、あいうえお作文と大喜利で部の特色を紹介〜最終的にイルカの「なごり雪」を歌って大団円。という宴会芸的なものだったと思う。あらためて文字にしてみても、何が良かったのか本当によくわからないのだが、観たときになぜか感動してしまい、本来ボートがメインのはずなのに、どうでも良いはずのその端っこの枝葉の部分に憧れて入ってしまったのかもしれない。

入部に先駆けて仮入部的な期間があり、旧式の木製ボートを漕いだりトレーニング器具に触れたりした。先輩はステージで見た通り面白くて優しかった。それを経て僕を含む9人が入部。すると、入部を境にめちゃくちゃ優しくて面白かった先輩が絵に描いたように豹変した。

優しくトレーニングを教えてくれていた先輩たちは、厳しい地獄のメニューの管理人に変貌。寡黙になり話しかけづらい空気を纏った。

罠にハマった。

そう思った。こうやって御伽話みたいに、天国だと思って入ったらもう戻れない地獄にいる、みたいなことが現実にあるんだ…と怖くなったのは忘れられない。望んで入ったはずなのに、甘い汁に引き寄せられて囚われたようで、嫌な気分のまましばらく過ごした。

また、「バーベルのシャフトを跨いだら腕立て伏せを10回しなければならない」等の「バップ」と呼ばれるルール(罠)が数々存在した。バーベルの場合は、片足跨いだ時点で10回。もう片方の足でも跨いでしまうと+10回、跨いでしまった足を慌てて戻しても再び跨ぐことになるので+10回だった。なので片足跨いでしまったら、その状態のままバーベルの端までチョコチョコと移動してバップを最小限に抑えなければならない。慣れるまではついついやってしまい、どんどんバップの負債が累積していくので、部活後の時間でそれをトレーニングで返済することにる。ゲーム性を用いた見事な筋トレシステムだった。

2個上の先輩は穏やかだが存在が怖く、1個上は教育担当として、わかりやすく鬼のように厳しくなった。

あーこんな風にわかりやすくベテラン刑事と若手の刑事のコンビネーションみたいなことするんだ…ドラマの中のあるあるが現実のものとなった。もちろんこちらにそれを引きで見る余裕はない。「ごっつええ感じ」で言うところの借金取りのコント、アニキと舎弟のデフォルメされた絡みがボート部のおかげでより面白く感じていたかもしれない。

「エキセントリック少年ボウイ」のテーマ

この頃、伝説の番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」は毎週の楽しみだった。

地元の青森ではフジテレビをネットしていなくて、日テレ、TBS、テレ朝系列以外は基本的に観ることができず、それらの局以外の人気番組は半年ほど遅れて深夜の時間帯に編成されることで観ることができていた。そんな中、我が家では謎の装置と父親のアンテナ調整により、青森県に居ながらにしてフジテレビ系列局「岩手めんこいテレビ」を観ることができていた。その頃のフジテレビはバラエティー番組がズバ抜けて面白く、テレビっ子だった僕にはこれ以上ない環境だった。みんなが観れない面白番組を自分だけが観れている、ちょっとしたタイムマシン経営みたいに、文化を先取りして優越感を感じていた。

”イチクミ”の中にはもう1人、「ごっつ」視聴者・ダイちゃんがいた。別の中学出身だったダイちゃんは同じく進学クラスの中では成績が良くない方で、クラスの誰ともつるむ様子もなく、いつもニヤニヤしていて掴みどころがないが、オシャレで面白そうな空気を纏っていた。ティンバーランドのブーツを履いていたり、確かそのころ既にDJもしていた。今振り返ると学年で一番イケてたのはダイちゃんだったのかも。そんなダイちゃんと「ごっつ」話をして、自分たちしか知らない当時の先端の笑いを共有していたのもいい思い出だ。ダイちゃん、どうしてるかな。

ボートは、オールを強く漕ぐことでより前に進む。膝を曲げながら腰を折りたたみ、オールをつかんだ腕を前に伸ばし水面に対して垂直にブレードを差し込む。ちょうどブレードが丸々浸かるくらいの深さをキープしながら水平にオールを引く。同時に強く脚を蹴り伸ばし、屈んだ上半身を後ろに倒す。腕を引いたら水からブレードを抜き、また屈みながら腕を前に伸ばす。これを速く力強く繰り返す為の、筋力と持久力がものを言うスポーツだ。この頃には身長も180cm程になっていたが、僕より背の高い先輩は何人もいたし、屈強な肉体の持ち主ばかりだった。僕はなかなか太ることもできず持久力も根性もなかったので、後々に渡って先輩たちの期待には応えられなかった。

GWには、毎年恒例の春合宿なるものがあり、高校に併設された合宿所で寝食を共にしながら授業以外の時間をほぼ部活に充てるという1週間を過ごす。例によって中身はほとんど覚えていないが、記憶の断片はいくつかある。

そこで先輩たちが良い香りの香水をつけていることも知り、高校生が格段に大人だと感じたものだった。その後卒業まで自分では香水をつけることはなかったが。

理想の肉体に近づくため、合宿では守らなければならないルールがあった。それは朝昼晩、それぞれご飯を丼3杯食べること。朝は特にキツい。食べ終わるまで食堂から出ることはできなかった。先輩たちの中にもトイレに行って吐きながらやっと完食する者もいたほどだった。僕は痩せていたが、丼3杯は苦しみながら何とか食べ切れていた。そんな合宿の夕食中、1個上のトシヒコ先輩が少し離れた席からこっちに叫んできた。

「菊池〜、そこのスーンブーダー取って」

トシヒコ先輩は大柄な1個上の中心的な存在。聞き返すのは怖かったが、聞き間違えたのか、何を言われているのかもよくわからず聞き返した。

「すいません!もう一回お願いします!」

「だからスーンブーダーだよ!!」

「え?」

「スーン、ブー、ダーア!!」

「すーん、ぶーだー…ですか?」

何度も聞き返していると

「あーもういいよ!そこの酢豚だよ酢豚。」

目の前の大皿には酢豚が。

「あ!酢豚ですか!どうぞ!」

「すーん、ぶーだー、ですか…?って何だよ。笑」

起こる失笑。少しの間、すーんぶーだーと呼ばれた。大したことないのに今だに覚えていて、音楽とは全く関係ないが思い出してしまった。気の利く後輩として振る舞っているつもりだったのに失敗したことが嫌だったのか、イジられた事を上手に返せるほどの懐中もなく、ずっと記憶に残っている出来事だ。でも良く考えると先輩の方が恥ずかしかったのではないか。ちょっとした後輩へのおふざけを何度も聞き返されたあげく、ギャグの説明をさせられたんだから。だとしたら申し訳なかった。

そしてこの年、ドラマ「愛という名のもとに」がヒット。大学時代にボート部の仲間だった若者が社会に出た後に苦悩する姿を描いた、何とも暗いドラマだった。微かな記憶では、確かこのGWの合宿中に、ドラマの中で通称・チョロが自殺してしまうエピソードがオンエアされたと記憶している。さらに暗い気持ちになった。

たまたまボート部を題材にしたドラマが後から流行っただけなのに、ドラマの影響でボート部に入部したと思われたら恥ずかしいと思っていた。今回念のため、放送されていた時期を調べてみたら、1992年1月クールとあった。僕が入部する頃にはオンエアは終了していたということになる。

うーん、ドラマが先だったとは。。つくづく自分の記憶は当てにならない。まあ、また青森ゆえのフジテレビ系遅れオンエア案件か、はたまた影響が嫌すぎた自分の記憶のねじ曲げかはわからない。真実は幻のようである。どちらにせよ、主題歌はよく聴いた。

浜田省吾「悲しみは雪のように」

この合宿が終わった後、一年生が出場する新人戦があった。初心者向けとされていた木製の4人乗りのボートで争うのが恒例で、エントリーするのは近隣3校から2艇ずつほど。この新人戦では、自分たちの学校から出場する1年生の2艇どちらかの優勝が、先輩からの絶対命令だった。もし優勝できなければ1年全員が5厘刈りにしなければならないという、絶対に避けたいバップつきだった。校則で丸坊主だった中学校をやっと卒業してまだ2ヶ月。せっかく伸びかけた髪が約1.5mmに逆戻りの危機だ。そんな事態は絶対に避けたかった。

また、先輩たちの話によると僕たちの高校の優勝が何年も続いているらしく、更にプレッシャーがかかった。なるほど、だから逆にこんな最悪な風習が問題なく続いているのか。5厘刈りになるのも避けたかったが、そんな事より5厘刈りのバップが周囲に晒されることがヤバいと思っていた。当時は部活のパワハラなんて当たり前で、問題になることは少なかった時代だが、その感覚はあった。同じ1年生のツボとヨシハルは、負けても絶対丸刈りになんかしないと言っていたし、先輩たちと揉めるのも嫌だし、勝って何事もなく終えるのが使命となった。

浜田省吾「愛という名のもとに」

新人戦を終えた月曜。

僕らは無邪気な髪の毛を無くしたのだった。バップという名のもとに。

1992年後編へつづく。


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