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多くの感動を味わった私の半世紀、エンジニア冥利に尽きる!part1世界最高峰の米国技術

日本人として初めて接した世界最高峰の技術

まず最初にお断りしておきますが、私が今まで関わってきました分野は、国家プロジェクトや国際プロジェクトが多く宇宙を含め、どの分野も詳細を語れない部分があります。そんな場所はオブラートに包んだような表現や分かりやすくするために多少変えた表現になるところもありますが、ご了承願います。

約半世紀の私のエンジニア生活で心を震わすような多くの感動と出会うことがありました、これは本当にエンジニア冥利に尽きることと思います。

その中でも特に心を震わせ感動したことを、part1からpart3くらいまで分けてブログ投稿したいと思っています。

「心震える感動を味わい続けた私のエンジニア人生!」と言うことで、

今回はpart1として、「日本人として初めて接した米国の世界最高峰技術」についてです。

随分むかしの事ですが、日本に初めて本格的な人工衛星工場が首都圏に誕生し、私は希望通り入社することができました。

人工衛星工場と言っても、当時は人工衛星打ち上げ頻度は5年に一度くらいのペースでした、さらに会社間の受注争いもありますので、下手をすると打上げがもっと遠ざかるケースもあります。

国立天文台やJAXAに勤務しているのであれば、宇宙関係から離れることはありませんが、民間会社ではそうはいきません。

忙しい分野に移動させられるのは、民間では当然のことであります。私も当然のように新規プロジェクトで、米国製の世界一と言われている高性能な電子機器を日本国内で生産するための国際プロジェクト立ち上げエンジニアとして新しい分野に移動になりました。

当時はコンピュータはありましたが、学校の教室くらいの部屋に入れるような大きなものでした。銀行や大学なんかでも、そんな大きなコンピュータを使っていました。

勿論、私たちの人工衛星工場もミニコンと言われる当時としては小型のコンピュータも出始めていましたが、大型コンピュータが一部現役だったころです。

米ニューヨーク 写真提供:wikipedia


新規国際プロジェクトのために米国に渡った私が扱ったのは、コンピュータ内蔵の完全自動装置でした。仕事がら最新のシステムを見たり扱ったりすることは多かったのですが、10ラックもあるような大規模なシステムは初めてでした。

このような装置が複数台あり、製品である電子機器のモジュールレベルから、組立後のシステムレベルまで全ての機器の試験ができるものでありました。参考までに、複数台で百億円を超える高価なシステムでした。

当時の日本の、この分野の電子機器も世界のトップクラスだと言われ各装置はコンピュータによる自動化は進んでおり、高性能な装置でした。でも新規国際プロジェクトの装置は、それらの装置をはるかに超える性能、1/10から1/20くらいの時間で試験が行える、つまり丸1日かかるような試験が30分から1時間で終わるのです。当時、世界最高性能と言われる米国のシステム装置でありました。

試験のスピードが早いばかりではなく、当時では考えられないような不具合発生時の不具合場所特定も短時間でできる優れものでした。不具合サンプルや突発な不具合品を取付けると、次から次へと自動で、しかも短時間で不具合の場所をみつけてしまうので、あまりの凄さに驚くばかりでした。

大きさや性能は桁外れに凄い、さらに見た目、つまりデザインも素晴らしい!製品の電子機器は当然だが、それぞれの装置も輝いている。見た目、美しさも十分に世界最高峰です。

日本の、いや世界のエンジニアであれば一度は触れてみたい人類最高性能のマシーンって感じです。私は米国に行って異次元の世界に足を踏み入れたような気持ちでいっぱいでした。


米国出張時の著者

米国出張のスタートは製品である電子機器の説明を受け、そして各装置の説明、その後に取り扱い方法、その後に各装置毎の点検方法、それから各装置の修理方法、最後に全装置が性能通り動作しているかの確認、全てを数か月間で行いました。

当時の米国のコンピュータ技術と製品の電子機器技術は、飛び抜けていた。まさしく世界最高と世界中が認めているものでした。

英語説明に苦戦し、不明な点について米エンジニアに質問すると、分かりやすい英語でトコトン付き合ってくれました。また最初のころは時差の関係で睡魔に襲われかかることもあったが、新しい空気を吸いに行こうと、他の機器を見せてくれたり庭の散歩に連れて行ってくれた。

米国に渡ってから1ヶ月ほど経ったころに、私の表情に疲れを感じとったのか、休日に大リーグの野球の試合を見に連れて行ってくれました。私が少年のころに野球をやっていたことを知ったから、気晴らしにと誘ってくれました。

また1ヶ月が経ったころ、今度は交響楽団の演奏を聴きに誘ってくれました。その後も米国を代表する科学博物館や有名観光地や美術館などにも案内して頂きました。

それらの間には、エンジニアの皆さんの家庭に招いて頂く機会も多かったです。本当に米国のエンジニアの皆さん方には今でも大変感謝しています。

英語に苦戦していたが、数ヶ月が経過するころには不思議とほとんどを理解できるようになっていた。エンジニアなので専門用語については理解できていたと言うことも、米国エンジニアの英語説明が早く理解できるようになった理由だと思いました。

そんな米国の会社での仕事に加え、宿舎での予習復習も繰り返し行っていた。そんな事もあってか、どうにか数か月間のスケジュールを終えることができた。

最後には今まで数ヶ月間の内容をどの位理解しているか、理解度確認もクリアすることができました。

当時としては、人類史上最高性能と言われている米国製マシーンを、日本人として初めてその技術に触れただけでなく、日本人としては初めて専門エンジニアとして認定されたことになります。正直言って、大変に嬉しかったです。

当時、日本ばかりでなく世界何処に行っても見ることができないような、想像をはるかに超えた米国製の高性能電子機器や各装置の性能に驚き、感動した数か月間の米国出張でありました。

何もかもが新鮮で、毎日毎日新しい驚くような知識を教えていただき、胸がグルグルしてワクワクしていました。数か月間の米国出張中は、アドレナリンが出っ放しって感じでした。多分、サムライの時代に初めて欧米に渡った使節団のような気分だったと思います。

今の世の中で言いかえると、野口聡一宇宙飛行士が日本人として初めて米民間有人宇宙船クルードラゴンに搭乗し、新しい米国の自動化の進んだ有人宇宙船を操作した時は、多分最初の日本人宇宙飛行士として大変に感動したことでしょう。

私もエンジニアとして、1台数億円以上という世界最高性能のマシーンを複数台も隅々まで取り扱うことが出来たのです。私たちエンジニアにとって電子機器やシステム装置は、宇宙飛行士にとっての宇宙船のようなもの、たった数か月間でしたが、世界一高額で高性能なマシーンを取り扱い、内容について語り合ったのですから、感動もひとしおです。

私にとって大変な刺激となり、人としてもエンジニアとしても、大きく成長するための大きなステップとなった米国出張でした。


米国出張時の著者


今、振り返ってみると、このような米国出張を経験出来たことは大きく自信にもつながった。そして国際プロジェクトを成功させたことは、その後の多くの難問に怖がることなく正義感を持ち続け、正々堂々と立ち向かえるようになった。

そして、もっともっと大きなプロジェクトに真っすぐに向かう、途轍もない力を与えて頂きました。

この米国出張経験が活き、その後・数十件の国家プロジェクトと国際プロジェクトを担当することとなる。

このように大変に進んだ技術の新しい世界に触れ、驚きと感動で数か月間も胸をワクワクし続けた経験なんてことは初めてでした。

ですから、この米国出張時の経験は「心震える感動を味わい続けた私のエンジニア人生」においても、一・二を争う強く感動した出来事であったことは確かです。

本当にエンジニア冥利に尽きる感動の米国出張と言う機会を与えて下さった、関係者の皆さんに感謝しています。有難うございました。

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