忘れる前に

祖父が亡くなった。意識があるうちに会いに来て、とのことで会いに行ったのがお昼。亡くなったのは夕方だった。

確かに思うことがあって、思えば思うほど悲しくつらいのだが、しかしこのことを忘れて元気に過ごすのが良いと、今の私は思えない。
忘れる前に今を記録しておくことにする。

祖父は寺で間借りしながら生活をしていて、ある会社に就職した。その会社で祖母と出会って結婚をする。祖母に婿入りし、田舎にある祖母の家で暮らした。
祖母は母と叔父の2人を産んで、若くして亡くなった。そのために、祖母の母(私にとっての曽祖房)と祖母の妹(私にとっての叔母)とが祖父と共に暮らすことになる。

あとから、脳梗塞で倒れたベッドの上で、「祖母が亡くなってから世界が変わった」と話したらしい祖父の顔は想像できない。

私が生まれた時にはすでに祖母は亡くなっており、仏壇に飾られた白黒の写真しか知らない。ので、祖父にとっては婿入りした祖母の家だが私にとっては祖父の家だった。まだ言葉の意味も理解していない私に、祖父は「男前のおじいちゃん」と呼ばせるように癖付けた。私は中学生まで、「男前のおじいちゃん」と呼び、大好きな田舎の家に遊びに行った。

陽気で明るい男前のおじいちゃんだった。朝早くに私を連れ出して、水路の蟹だったりお寺の鯉に餌をあげに行った。
そのあたりにある木の実を拾って投げたら怒られ、ひっつき虫で遊んだ。おじいちゃんは芝の手入れをしっかりしていて、本棚には芝刈りの本があった。私はそこで鎌の扱いを教えてもらった。

他にもある。祖母の墓までの道のりで鶏に挨拶をして、野生の毬栗を拾って歩いた。山の上にある墓まで、歩くと十数分かかる。帰り道にはバッタやカエルを捕まえて、つくしをとった。叔母がそのつくしを料理して、広い部屋の広い机で食べた。夜は広い部屋に皆で布団を敷いて寝た。

男前のおじいちゃんは時たま私たちの家に来た。母に顔を見せに来ていたらしい。ダイニングの椅子におじいちゃんが座っていて、「よう」と明るく声をかけられた。思春期さしかかりの私は少し恥ずかしがりながら、祖父と話をした。

父方の祖父が亡くなって、父の実家での葬式にも男前のおじいちゃんは来てくれた。おっさん(京都弁のイントネーション)の経読みが独特で、それを真似して笑った。飄々としていて、いつもどこか余裕ありげだった。

曽祖母の葬式は盛大に行われた。会場にて、多くの人が集まった。曽祖母はすごく大きい家同士の結婚だっからか、知らない人もたくさんいた。私は矯正器具で食べるのに苦慮していたが、全く知らないおじさんが「無理しないで」とすごく気を回してくれたのを覚えている。
男前のおじいちゃんは、これまた飄々としていた。弱っているなあとか、元気だなあとか、特になかった。いつも通りだった。

そんなおじいちゃんがある日、脳梗塞で倒れた。田舎の家から道路に出る道でのことだった。おじいちゃんは生きてたけど、飲み込む力と右半身が上手く動かなくなった。おじいちゃんは、施設に入ることになった。

正月にはおじいちゃんを施設から田舎の家に連れて行った。痰を吐き出しながら、施設の人に怒られないものを食べた。確実に弱ってはいたけれど、相変わらず飄々として喋っていた。すごく無神経なことを揶揄い口調で言えるくらいには元気だった。車椅子に乗っていた。

田舎の家には叔母だけになった。そんな最中、叔母はレビー小体型認知症になった。あちらこちらに猫が見えるようになって、幻覚を見るようになった。それが幻覚であることが、とても恐ろしいらしい。叔母も施設に入った。
田舎の家は遠く、それぞれの家庭生活を崩さない程度なんてものは無理で母も叔父もつきっきりで介護をすることはできない。

コロナ禍になった。
流石に大学生の私は会うのを控えるようになり、施設も面会などが厳しくなって会わなくなった。気づけば年月は流れて、こんな時期になってしまった。

男前のおじいちゃんがコロナに罹患した。施設を離れて、病院に入った。コロナ病棟には身内であっても入れない。母はメニエールが悪化した。

コロナは落ち着いたが、肺機能と飲み込む力がもうほぼないらしい。胃瘻を提案されたが、おじいちゃんは嫌がるらしい。母と叔父が話をしに行くと、「お前らがそうしたいならそうしたらいい」と受け入れたらしい。
しかし、胃が荒れていて結局胃瘻はできなかった。鼻から直接胃へチューブを通して何かを入れるのも嫌がった。わかる、あれはほんまに気持ち悪い。点滴と、ほんの少しの液体を飲み込む日々。そろそろだね、となんとなく皆は考えだした。

意識があるうちに会ってね、と声がかけられて私は父の車に乗って病院へ向かった。父の運転は相変わらず気が強くて、カーチェイスばりに車線を変えて車を抜かして行く。滑るような運転で、このまま死ぬんではないかと思った。死ななかった。毎回慣れない。恐ろしいもんである。

男前のおじいちゃんは、口に装置をつけて、忙しなく身体を揺らしていた。おじいちゃんが何を言っているかはわからないけど、私を見て大きく目を開いたので、私も大きく目を開いた。祖父のひとみの縁は灰色にぼやけていた。綺麗だなあと思った。
よくわからない数値を表示するモニターと、よくわからない管と、おじいちゃんが繋がっていた。目を凝らして理解しようとしても、よくわからなかった。

痩せて鎖骨がすごく出ていた。おじいちゃんは話せないだけで聞こえてはいるかもしれないから、これからの予定の話をした。卒業するよ、就職するよ、袴履くよ。

おじいちゃんは私がいる間体を起こしていたので、早く横になったほうがいいとのことと、私は孫ということで関係が母らに比べると低いからか、早めに退室することになった。

母が最後に握手したら?と提案して、母はおじいちゃんの右手をベッドから出した。
「触っていいの?」
「全然いいよ」
おじいちゃんの右手は、しっとりしていて、細かったけど、弱々しくなかった。親指でさすっても、しっとりとしてた。私の手を、いつも通り握った。

「じゃあまた来るし、この子帰るし」
と私が帰ることを母がおじいちゃんに言う。叔父もそれを伝える。
同じ体制であまり動かなかったおじいちゃんが、部屋の出口側に移動した私に身体を向けて、自分から私に右手を出した。
ああ、と母も叔父も私も少し驚いた。
「じゃあここで、」と母が切り出して私とおじいちゃんの握手に手をかけて、私にもういいよと伝えてくれたのだろうが、しっかり握っていたのは私ではなかった。
おじいちゃんはしっかり私の手を握った。私も、緩く力を入れて握り返した。しっとりしてて、なめらかな肌だった。ところどころしみがあって、細かったけど、普通の手だった。
「じゃあね また来るし」

おじいちゃんはその日のうちに亡くなった。眠るようでしたよ、と看護師さんは教えてくれた。数時間前にはあんなに向こうからしっかり私の手を握ってくれたのになあ、と不思議な気持ちで、いまいち実感は湧かないが、悲しさの実感だけはあった。見栄っ張りなところもあったから、すごく頑張って身体を動かしてくれていたのかもしれないとか、考えれば考えるだけ、もう何もないんだなあ、という気持ちに襲われた。じわじわと、あの時の握手の感覚が消えていくのが惜しかった。あのとき見たおじいちゃんの顔を忘れたくないなあとか思った。

考えれば考えるだけ泣けてきちゃって、もうどうしようもないし、かといって忘れたいわけでもないのに、忘れるしか、時間が経ってどうにかなるしかないのも変な話で、でもどうやらそれしかないらしい。
そして私には遊ぶ予定があって葬式の日程と被ってしまい、「おじいちゃんが生きててもその遊びには行けって言うよ」と皆が言うてくれたが、どうにもならない気持ちと、しかし遊びには行きたいというなんとも愚かな私の気持ちが、余計に私を惨めにさせた。申し訳なさと、悲しさと、私が別れに向き合う場がないことへの不安とがあった。

お通夜にだけは顔を出すことになって、ああおじいちゃんはもう起き上がらないのだ、こちらを向いて手を出してはくれないのだ、という事実を受け入れて、どういう気持ちになって、私はどうしていこうかなあ。

また来るって言ったやろ、会いにきたわ、と言えるだろうか、握り返さない手と私は握手ができるんだろうか。
ごめんね、ありがとうね、またきたよ、それから、何を伝えたらいいかな。たくさん泣いちゃった。

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