とある魔術の禁書目録について
はじめましてRedox(レドックス)と申す者です。
友人(@shanto3024)と会ったときに「なぜ、君はとあるに対して熱量があるのにそれをアウトプットしないのか」(意訳)と言われたので私のとある魔術の禁書目録(以下とある)へのスタンスを書いておきたい。
とあるシリーズの布教に関しては先行記事としてシャント君の記事のリンクを載せておく。
https://note.com/shanto3024/n/n1bbc0144dbef
本題
とあるシリーズは不思議な魅力をもつものである。ここで成田良悟著の
『デュラララ』シリーズの登場人物 門田京平(通称ドタチン)を取り上げよう。彼は『デュラララ』シリーズでは比較的知識人の側面を持つキャラクターとして描かれているが、遊馬崎ウォーカーと狩沢絵理華そして渡草三郎の4人組で行動するワゴン組の一人であり、遊馬崎と狩沢のところを構わないオタク談義を諫めるポジションでもある。しかし、彼はそのような二人にしばしばライトノベルの話を振ったりするのである。これは成田良悟氏のリップサービスかもしれないが、ワゴン組の会話は基本的に電撃作品を取り上げている。そして門田京平は作品中唯一とあるシリーズを読んでいると公言しているキャラクターである。
これは大変面白いことでありちょうど旧約期のとあるを読んでいた読者がどのような層だったかを表す好例だと思う。
これはとあるシリーズの作品構造に踏み込む話だが3主人公特に上条や浜面は基本的に元々の自力では勝てない相手と戦っている。そして相手の特徴や弱点、現地での協力者の存在によって自分を最も発揮できる場面で敵を打ち負かしている。これは他のライトノベル作品(異能バトル)と異なる。
つまり、協力者の存在は増えるが本人が強くなることはないということだ。
しかも協力者は流動的であり、イベントの経過によっては牙をむくこともある。このような決して明朗快活でなく主人公が快刀乱麻でイベントを解決するストーリーでないことに魅力を感じさせるのはどうしてであろうか?
これに対しては持論を紹介しておきたい。
カタルシスである。
結局、イベントの最終盤に3主人公や各巻の主人公格が自らの信念や、相手の悩みに対しての彼らなりの答えをぶつける。この時読者である私たちはカタルシスを感じているのである。
さて、私は冒頭に門田京平なる人物を挙げたが彼がとあるのファン像として好例だと感じたのは、カタルシスを感じにくいような生活を送っている人物であるからだ。
尤も、人間の生活にカタルシスがなければ生きる屍だし、
それはエンタメすべてがカタルシスを与えたりうる存在じゃないのか?という意見もわかるがカタルシスを与えられる作品は00年代の青少年には少なかったと感じる。例えば、めちゃ×2イケやいいとも、水戸黄門などは安心できる予定調和のエンタメであり、携帯小説は一般的な願望の投影であるからだ。(私はこのようなエンタメないし作品を決して蔑んではいない、むしろ予定調和のエンタメはまんがタイムきらら系列の4コマに内包されている魅力だと考える。)
まとめ
本稿で、伝えたかったことは少なくとある魔術の禁書目録の魅力の特殊性である。昨今はエモいエモいと言われ感情が陳腐化する傾向もある。
今こそとあるシリーズの適度に骨太な物語に触れてみてはいかがでしょうか。
追記
この作品構造は各巻ごとの構造を重視して議論したので一切とあるシリーズの伏線回収の妙などは触れていない、私が思うに旧約シリーズはどこから読んでもある程度楽しめるものだと考えている。アニメを見てここがもうすこし気になると思えばそこから買って行くのもよいと思う。
私は未アニメ部分の魅力はむしろアニメ化部分の蓄積から生まれるものも多いと考えているのでぜひ旧約シリーズの途中数巻を読むなどしてもらうと楽しいとあるライフを過ごせると思う。
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