サイゼリヤと丘

先日、違う作業場所で働く同じ部の同期2人とサイゼリヤでご飯を食べてきた
気心の知れた人とのサイゼリヤは楽しい、安い料理でも格別に美味しく感じる
楽しく会話して解散したはずなのに、私はどこかモヤモヤしていた

私には文通をしている友達がいるのだが、最近届いた手紙にエヴァンゲリオンついてこんなことが書かれていた
エヴァのパイロットたちは「すぐに答えの出ない問いに対して安易な答えに飛びつかず、宙ぶらりんのまま耐えている」。そして誰かが出した答えではなく、自分の出す答えを追い求めて問題に真っ向から立ち向かっているのだ、と。

その手紙が届いたのは、私がこの日記を書いた後だった。
長く自分が抱えてきた物悲しさと一区切りをつけ、自分の答えを見つけられた時だった。
手紙には「自分で答えが出せた時見える景色がある」と綴られていた
その一文を読んだ時私は高い丘の上に立てた心持ちになった
丘に辿り着けた自分が愛しくて、前よりもずっと自分が好きになった。

同期に言われて引っかかっていたことは、小さい頃ドラえもんとクレヨンしんちゃんの映画を欠かさず観に行っていたと話した時に「安住さんは家族ぐるみで観に行ってそうだね」、と言われたことだった
なんてことない一言なのに、なんで私はその一言がそんなに嫌だったんだろう
あと、その同期は終始私をなんだか平和ボケした子供のように扱っていた
(あと私が定時で爆速退勤してることも揶揄された。残業して働いている人は定時で退勤する人のことをなぜ馬鹿にする?)


私はたぶん、自分が苦労してきた過去を「安住さんはなんだかお気楽に生きてきてそう」みたいに勝手に想像して欲しくなかったのだった
我ながら「あぁ!自分ってなんて面倒くさい!」と思う
人の生い立ちなんて目に見えないものに対して配慮しろなんて狂ってる

それに私自身子供っぽい振る舞いをするから同期による子供扱いは順当っちゃ順当な扱いである
でも自分では自分をそんなに子供っぽいと思っていなくて、子供っぽく振る舞った方が得をするからそうしているだけだ(その考えが子供っぽい?)

私は自分が人にどう見られたいかよくわからない
長く付き合っている仲良しの友達は、私が自分を「明るいけど暗い人間」と説明したら納得してくれた。
明るいけど暗い自分をわかってほしいなんておこがましいけど、「私お気楽に生きれるようになったのは散々苦しんだからですから!!」とギター侍みたいに叫びたかった

文章を書いてる間にそれっぽい結論が出ると思っていたが、自分を責め立てず、無限地獄に陥らないためには、普通に同期がちょっと嫌な奴だっただけ、という結論がお手軽な着地点だ

ただ重めの枷をようやく外せて身軽々とした今、自分がどういう人間でありたいか、どういう人間に見られたいか考えても良いのかも知れない
答えを見つけたら見えてくる景色がきっとまたある。私は今、手紙の言葉を皮切りに景色ハイになっているのだ

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