現代日本のエリート思考という病

しばらく前に、ある上場企業の取締役の友人と話をしました。高校時代からそつがなく、橋一桁の大学を出て、就職した友人です。その友人が放った言葉に愕然としました。現在の友人の境遇に対してお前は恵まれている環境にいるんだ、というような事を言った私に対しての言葉でした。「自分が、今までどれだけの犠牲を払ってきていると思うんだ。」

過去に自分が犠牲にしてきた代償として現在がある事を当然と考えていて、逆にそうなるであろう未来を夢見て、現在を犠牲にしてきた積み重ねの帰結であると思っているのです。

受験勉強のための青春時代、大学でのゼミ活動・就職活動(当時はゼミ選び≒会社選びでした)、入社後の社内閥闘争、結婚生活、親としての子育てへの関わり、そういったものに払った犠牲という意味でした。

その思考は、「自分は相応の犠牲を自分の人生に課してきた」だから「相応の代償としての現在の収入と地位を手にする権利がある」というものです。裏返せば「収入と地位を手にしていない人間」は「自分を律して相応の犠牲を払わなかった人間」とする思考です。だから収入や地位を手にしていない人間の不遇を「努力不足の当然の帰結」と考えるのです。汚く言うと「てめえのせいでホームレスになったんだろ。」という訳です。

そこには、過程を評価する深慮や背景を斟酌する想像力はなく、ただ現在の不遇を「自身の努力不足の結果」と切り捨てる決めつけだけがあります。

当然です。日本の教育システムと、そこに連なる官庁・大企業群の就職システムがそうできているからです。

過程を評価し、ペーパー試験の点数だけに依らない評価を標ぼうする「内申点」という魔物は、①教師に好かれる言動をする生徒②内申点にならない活動には力を注がない生徒➂内申点のために部活に励む生徒④内申点のために宿題を手伝う親 等々の手下魔獣を生み出し、結果として「努力≒結果」という間違えた方程式で子ども達を洗脳してきたのが、日本の教育システムです。

しかし、現実はどうでしょう。同じ程度の能力を持っていて、同じ程度の努力をしても、どこかの時点で選択をあやまれば、その努力は実を結ばない事の方が多いのです。選択を誤らなくても、上司が好ましく思うプレゼンテーションができないというだけで、社内の王道からはずれ不遇をかこつのです。

ま、そういう人も官庁・大企業にいられれば「一応」エリートとして世間から認められますから、先の思考回路は維持されます。

そして、そのようなエリート思考がこの国を動かしているのです。そこに弱者保護に対しての根本的な理解や、実現のモチベーションはありません。資本主義は弱肉強食の世界なのですから、弱者は食われるものですしね。

しかし、立場上食えない。少なくとも食われるべきとは言えない。だから仕方なく福祉という部落に入れるのです。社会から切り離して、生きるだけの金だけ与えて、自分はそことはかかわりのない世界で、贅沢品に囲まれて生きていく。ネズミの世界ではしゃぎながら、持てる者はさらに富むシステムを自分たちのために作り、そのシステムに自分の子どもたちが組み込まれやすくする事に腐心するのです。

そりゃ、格差は開くでしょうし固定化もするでしょう。だって、国を動かす人間がそれを無意識に望んでいるのだから。

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