2020年7月

なにをやったとか言いづらい気がしていろいろ書きあぐねていたら8月も終わりそうなので日々を振り返ってみてもなんとなく書けない。
7月はずっと雨が降っていた。狭い生活範囲で少しずつ発散(主に食)はできても、それでもどんどん大きくなる行き詰まりのなかで、救いがほしくなり、ひとりでひっそりと金沢21世紀美術館の内藤礼『うつしあう創造』を観に行った。その場でiphoneに打ち込んだメモを元に記録しておく。
内藤礼の作品は、2009年の『すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している』(神奈川県立近代美術館)から自分のなかでとても大切なもので、わかりにくいかもしれないけど、わかりにくくなってしまった何かと自分の間にいつの間にかできた溝を埋める気付きを与えてくれると思っている。


一本の川が流れているかのような、うつしあっている空間を行き来する。流れに沿って歩いていくと変わっていく実像と影と反射。
それまでいた場所はどんな場所だったか、さっきまでいた空間とどんな違いがあったか、同じところはなく、地続きのはずだけど、どこだかわからなくなる。
ほんのりの揺らぐ風船は、自らの揺れで光と影の間を行き来する幽霊のよう。
光のさす場所にいれば姿はくっきりするけど、光のない方へ行くほど、姿が曖昧になる、あちら側にいってしまう。

とても広い部屋に足を踏みいれて、その広さに、ぽつんと放り投げ出された気分になる。あちら側を覗くと、同じように放り出されたように世界にぽつんといる「ひと」に会う。「ひと」の存在によって今立っているこの場所とうつしあっている世界なのだと気づく。わたしと「ひと」のスケールは違うはずだけど、同じような心許なさを感じる、けど「ひとびと」はまなざしている。「ひとびと」がまなざしている世界のはじまり(空から大地に落ちる水)は、こちらの足元にもある。こちらでは気づかないで踏みつけてしまいそうになるほどの微かな存在。それは世界のはじまりで、めぐみで、ゆらぎで、創造で、さまざまなものを反射する。どうしようもない心許なさも含めて、ここからはじめられるのだろう、と思う。地上はどんなところだったか。

ゆらぎとかきらめきとか、自然の恩恵でできるかたちがある。身をゆだねて、注意深くまなざすことで生まれるもの。

誰かの忘れ物、もしくは誰かに贈られるはずだったのかもしれない毛糸で編まれたあたたかな帽子に「ひと」は気づいていないように見える。「ひと」よりも大きく、「ひと」の世界を俯瞰して見ているわたしたちはその存在に気づくのだけど、それは誰かが誰かに与えるはずだったやさしさに気付けたような嬉しさがある。そのやさしさに気づけたり、それをどこかに託すことができれば、もう少しやっていけそうな気がした。

「ひと」と、「ひと」を見る「人々」とどんな違いがあるだろうか。こちらにいるわたしたちがたやすく歩ける距離を、「ひとびと」は焦ることもなく静かに佇み、注意深く静かに世界をまなざしているのだろうと思う。



わたしが住んでいる栃木県は永遠に雨天か曇天が続いていたのだけど、金沢に着いたらスカーッと晴れていて不思議だった。この状況でより狭く小さくなった自分の生活の範囲の外に、当たり前だけどこんなにも広く多くの人々の生活があり、メディアなどのフィルターを通さず、新幹線の窓から自分の目でそれを見れることがうれしく、それだけでみるみる元気になった気がした。
今回の展覧会も、忘れていた広いまなざしを得られるもので、観に行ってほんとうによかった。この状況が続いて来場者と収益が減って今後の美術館の経営が難しくなったらとか考えると心苦しいけど、企画運営してくださった方々に心から感謝。



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