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つれづれ

前にも書いたけども、周波数帯によって理解できるものが違ってくるな…と

同じことを言われた、読んだとしても捉え方が変わって、前に言われた時、読んだ時と違う側面に気づくな…と

今の状態で「知っている」と思っていたことも「全然知らなかった」ということが起こり得るということになる
今「知っている」状態に留まるなら、別の側面は「知らない」状態に留まっているということになる
この「知らない」状態が『眠り』であり、『ヴェールで覆われている部分』であるとも言えるな…
枠にハマってる状態がこれにあたるのかな…と
緩衝器がこれを強固に守っていたりする


何度も繰り返し味わってると
それが当然のこととして自分のものとなっていくのかもしれない
当然のことは刺激にはならない
日常になる
熱狂には成り得ない

恋愛は刺激で5ハウス
結婚は日常で7ハウス
っていうのもうなずける
最初違うんだーっていうだけの疑問だったけども
なるほどね…ってなる

日常が何かを意識してないと、いざ書こうとしても、あれ?ってなる
自己想起してないから記憶にないんだよね
いざ創るか…ってなると観察が必要になる
記憶にあるのは刺激が強かったものだけ
その時だけ自己想起してると言える

いかに客観的に見てるかで、他人に違和感を感じさせないものが
書けるんだろうな

必要なシーンと必要じゃないシーンがわかってるということ
日常を書くというのは、朝起きて、顔洗って…とかではなく、
その自己想起してる部分をメインで書くということで
自動的行動部分は脳が補完してくれるから詳しく書かなくてよくなる
それが違和感がない状態とも言える
高度なのは、その自動的行動部分に伏線がはられている場合なんだよなー

ファンタジーはまた別の世界線の話で、その世界の諸々が構築をされてないと書けない
ファンタジーと言いつつ、食べてるものが一緒とか、社会システムが同じとかになりがち 結局地続きのものしか書けない
だから0→1を生むってマジで難しい

何の話だっけ?🙂🙃🙂

そうそう
知識とか情報は普通にある
けど、受け取る側がどのレベルにあるかってだけなんだな…って

そこを他人が引き上げられるか?っていうのが疑問

知識がひとりでに理解を生むということはない。また知識だけを増やせば理解が深くなるということもない。理解は知識と存在との関係に依存しているのだ。

奇蹟を求めてP115


そうなると
学び方の問題になるのか

師と弟子の関係性
師の<要求>に対する態度、学びの姿勢、
努力、ここでの努力は超努力しか勘定には入れられない…と

むやみやたらに試しても意味がない

人は知識をもっている人々の助けがあって初めてそれを手に入れることができるのだ。これは一番最初に理解しなければならない。人は知っている人から学ばねばならないのだ。

奇蹟を求めてP73


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