光と影の関係
影があって形がわかる。
影の濃淡によって、凹凸が出てくる。これは最近入手した技法書に書いていた、影で地形を描く。でも理解できる。
影をしっかり描くことで光を表現できます。
闇を描くことは、光を描くことです。
光と影は表裏一体です。
光があれば影ができるし、影があれば光があるのです。
ーファンタジー背景 描き方教室 P56-
だけど、影は光が当たった元の正確な形を取っていない。
影絵を思い浮かべてもらえばわかると思うけど、映った影と指の形はまるっと違うものだ。又、光源の位置によって、同じものでも影は違うものになったりする。
何が言いたいか…。影の形で判断してはいけないんじゃないか?ってこと。
影を見て、その時の印象で好き、嫌い、ほんわか、怖いと判断するけど、影の元の形は全然真逆の場合もあるのでは?っていう…
これはリアル影の話だけど、ユングの心理学で言われるシャドウにも言えるのではないか?って
最近の先生の動画の影とかシャドウとかの話でそう思ったわけです。
自己を他人に投影して自分の知らない部分を知る。でも、それは影であって、実像ではない。ただ、ヒントみたいなもの。
影は自分ではコントロールできない。
確かに。しかも常に近くにいる。逃げてもまたいる。
影・シャドウに興味を持ったのは、職場を変えても、同じような人が必ずいて、かなりイライラさせられた経験から、ずっと、これはなんなんだろう?って思っていたときにいきついた。周りの人は特に気にならないみたいなのもまた不思議だった。周りの人は達観してるんだな…くらいに思ってた。
私がシャドウに対して取る行動はまず離れる。逃げるのではなく、距離を取る。そして、距離を取った状態で、その影を観察する。近すぎると逆に見えなくなるから、距離を取って、全体を見る感じがいい。そうすると、自分と切り離して考えられるので、冷静になれる。
後は、自分と関係ないもので俯瞰して見る。
去年の十二国記の新刊が私にとっては有効だった。
驍宗様と阿選の対比
阿選にとってのシャドウが驍宗様で、そのシャドウに苦しんでる様がめちゃくちゃわかる。
阿選は自分の枠を壊すことができずに自滅していくのに対して、驍宗様は自分の枠、国の枠を越えてついに王になり、今回皆が考える王の枠も越えたのだと思う。(同じシリーズの図南の翼・珠晶の本で語られてる話でもある)
余談だけど、王になると神籍に入るんだけど、この神籍に入ると人間であることを止める。つまり人として死ぬ。そして、神として生まれ変わる。それが、あの儀式なのではないか?っていう考察をしてた人がいて、めっちゃいいな。って思った。
確かに、王になると、首を落とされない限り不老不死で、王やめたいですっていうことができるんだけど、そうなると、仙とは違って、年をとって死ぬことはなくすぐ死ぬ設定だったと思う。
驍宗様を脳筋だと思っていた昔の私に教えてあげたい…。
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