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ぬこぱんち🐾

他のすべての人間の価値を外面的なはかない見かけだけで判断するというこの習癖を獲得していき、それは彼らの空想をいやが上にもふくらませ、今もふくらませ続けているのだが、この空想はあることに関してとりわけ強くなった。つまり<個人性>を獲得するということが外面を立派にすることと同義になり、それで彼らはみな、それだけを達成するために主観的に四苦八苦するようになったのだ

ベルゼバブの孫への手紙P387

誰もが、奇蹟と未知の世界の代表者であることを完全に忘れさせるほどの彼の非常な内的素朴さ自然さに打たれた。さらにいかなる気取りも、自分を印象づけようとする欲望も彼の内に全くないことを強く感じるのだった。またこれとともに、Gのすることには個人的利害が全く見られないこと、安楽さや快適さに対して彼が完全に無関心であること、また、どんな仕事であろうと力を惜しまずにやる能力などを感じた。

奇蹟を求めてP63-64

いかに外側だけで判断しているのかに気づく
この判断は誰がしているのだろうか?
判断は主観的なものから発生している気がする
つまり、自分が好きか嫌いか、自分にとって損か得か
自分の正しさを肯定するか否定するか
常に自分が主であって、客観的でない

外側には色々な側面があるため、どの側面を見るかでも違ってくるのかもしれないが、一面しか見れていないことに気づいていない場合がある
→固定された面しか見ていない/見れない
→自分が見たい面しか見ていない/見れない

嫌いな相手のいい部分は見ない/見れない
みたいな感じ
なぜ見ない、見れないのか?
→自分が否定される感じを受けるから??
→自分が認めたくない部分
→自分が否定したい部分


六根清浄ってもしかして、Gさんの言う人間第五番の結晶化した上の状態なのかな~と思ったりした

気血が欠けている状態が人間第一~第三番ってことなのかもな
欠けてることでバランスを取れていない状態に陥る
思考・感情・身体のどれかに偏りが生じている状態

仏教の輪廻は「六」で起きてる?
仏教の数字の用い方も色々照らして合わせてみると面白い


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