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ぎょしゃ

この前、メモしていた御者についてを見返して思ったのは、私は御者と同一化していたってこと。

メモの内容は

御者:乗客は誰か? 誰を乗せるのかを御者は選べない? 馬、荷車、御者のレベルで乗る乗客が変わる?

ってことを書いてた。

後から見返すと、自分が何を考えてるのかが客観的にわかるなぁ…って。
面白い。いい客、いい場所へ連れて行ってくれるであろう客を乗せたがってる自分(御者)がいる。

でも、乗客と主人と不在と…といくつかパターンがあるっぽい

御者は思考とすると、相対的に見たり、情報、知識から行先はこちらがいいだろうと判断するってこと?

御者に主人がいるとなると、そういう情報、知識からではない、主人が本当に行きたい場所を指定する。御者はいい悪い、好き嫌い判断することなく主人の指定どおりにそこへ向かう。そこへ向かう方法を知ってるってことになる?

主人が不在の場合、どこへ向かえばいいのかわらかない状態にある。ってことか?どこかに着いたとしても、ここは目的地ではない。と思う?

で、6/9の動画を見ると、御者は社会のなかの小さい自我で、主人が絶対的自我ってことなのかな?と

動画の中で、断念する。とか諦める。っていうことがでてくるのだけど、御者から主人にいくにはこれが必要なんだな…ってなる。ここで十牛図の第8図を思い出す。

で、6/30の動画を見ると、知性がH24で専門的悟りとあるので、これが御者、十牛図の第7図になるから、やはり、自己喪失を体験しなければ、この上にはいけない。ってことになるのかな…と。

人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)

般若心境でいう自己犠牲『自我を捨て、無我になる』 

キリスト教の自己犠牲も、元はここが本来の意味なのでは?って思う。
死と再生の死の部分。


社会的自己実現をしてから絶対的自我を目指すというのは、たぶん、御者・馬・荷車を一体として動かせる状態にある。ということなのかな…と。
御者・馬・荷車がバラバラであれば社会的自己実現はできない、これがきちんと動かせるのであれば社会的自己実現は簡単であり飽きた状態にもなるのかな…。


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