ink 007~8

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現状のink の文章を残し方について、思いつく部分を記載しています


○障碍のある方への、前向きで簡略的な記事はこれからも描いていたいな、ということ。

□今までの記事をまとめるときに、大まかな決め事を。この時点で、いくつか思い付いているものについて記載しています
・“共存性”が高くなるものを記載として選ぶ、例えば、シェアする人たちが自分に自信がもてて、それでいて過去の仕事を大切に出きるもの。過去の仲間も嫌いにならなくてよいもの。つまり、この場合には誰かと争ったというような形ではない記録を取る。
・一般的な範囲のケアの価値で、シェアの人たちのおおまかなケアやピアのラインがシェア・ケア等の正当性としてわかる。そこから、自分がやれる範囲でしっかりとやったことが、少なくともシェアの人には明白だと大体からでよいので、わかるもの。
・おおまかな福祉のフレーム、専門的な意見を、ある程度を踏襲することで、間接的にはシェアの人たちに対して保護的なニュアンスが自然な範囲で消えないこと。
・こちらが立つと、そちらが立たないには、しない。これは被害があるケースのパターンワークではないと考えて取捨選択をおこないます。シェアの一方の人の地位や性格を踏まえ、シェアのまた一方が個人的に配慮し、経験から憂慮をしたものとなり、必ずしもケアとして完成されたものとはならないものとして記載がなされる。
□そのため、そのほかに余白をとり、専門性がある部分があることは否定されません。ただ、それは私が主体的に話し辛いためです。
ほかに
・忘れられるところは、気にせず、忘れてしまおう、あなたはよくできたし、という楽観的な方針をもつ。
・シェアの人たちにおいても、異なるものはあるので、そのときにはシェアの人を優先する。ただ、何事も描きすぎないことを基本とする、また特別に内容が逸脱するならば、記載は現状は控える選択をとる。

🥝

これは前回、話すことを選ぼうと思っていた時点の記事です。

【こども六法 練習帳】
わたしも好きなのです。もしも使う時には、「個別のケースごとに書いてある」のが、あの本の良い所なので「あ!こういうところがあったな」→「本を開いて、その部分を取り出して、みんなで話してみる」というのはいいんじゃないかなと思ったりしました。

 そのため、わたしとしては当事者領域の「まとめあげ」と「あわい」について、考えられたらいいなと思っていて。

これを追うだけでも、立場によるとは思いますが最終的には、「人権」に収まる事があるのではないかな?と思います。

「まとめあげ」は
「なんとなく時間を取る事か」なって感じ

「あわい」は、
調べると多くの意味合いが出てくるところからすでに面白いのですが「間のこと」「人と人の間」「事と事の時としての間」「色などの、とりあわせ」「機会」など《goo辞書からは》こんな風に出てきて、多様な意味合いが含まれていてることで、思わぬことがあるような気がします。

 当事者の方に、このようなテーマを、より有意義に使ってもらえるには?あるいは、自分自身が本人として使おう!という時には「より、どうしたらいいか?」って視点はあるのではないか?と思います。

 リスクのようなものもあって、共依存の様な部分、権威勾配の様な部分、同一化みたいなのも言えると思います。そのため時期を観るって事が必要なのかなって私は思いますけど、それはまとめあげの時間をとっていると、ひょっこり落っこってくると言いますか、そういうシェアのイメージもあります。

 もし、誰かの何処かに悪いところが見えたとしても、権威勾配の仕方、共依存における文化的な背景、ジェンダー、障碍者の地位などを観た時には、安心の価値といっても多様であることが考えられるのではないかなと感じます。このような場合に“該当するのかな?”という疑問は、まとめあげに対して、まとめあげの考えを必要とするものとして、おっきいまとめあげかもしれません。
すると、相手に対する余地が常に色々な形でありえると私は思っています。
そうして
すこし段階の調子を遅らせたような時には、その事実を心として、行動や姿勢が補完してくるって事もあると思うんです、だから、そこを観るって感じじゃないかな、と。人権というのは、一瞬だけにかかる働きのことなの?みたいなのかなと言いますか。学習範囲ですこし話したい気持ちはありますが。だからこそ、管轄と周辺がわかるため、あとに待つ選択にしました。
 
 難しく法律のことをとらえない、って方向は、きっと支える側の全体像として、あることもある、と思いますけど。

今回はこんな感じです
ちょっと遅れたかな、その時には、すいません。


10/20

今週、途中、更新しようかなと思ったんですが。
目がしょぼしょぼ、秋のアレルギーなのか、長い間、画面を見ているの大変だったので。というか、仕事を探しに出かけていて、時間を結構使っていたんですが、繰り返し調べはするのですがなかなか踏み切れなかったりして。
 迷いの週でしたか、という。
ただ金曜に、方向を決めて一つ窓口に持っていったので。月曜日からはそれで動けるかと思います。

それから周りがどのように話しているかというというより、とにかく、自分のわかる事で、感じる範囲で、書くなら書こうという事で。
 そんで、いま、何かしら書こうとしているんですけど。………

 ひとつというのは、障碍であるとか、ケアに関係する事を描くにあたって、再考する事が必要じゃないかなというのを、一週間のうちで考えていたのは確かな所です。おもにこれはシェアの人に、何か伝えたかったんですけど、どうやって、何を、どのように、というのがなかなかつかめなくて。
 
 以前だったら、障碍に係る事を話して、同時に、シェアの人の権利が下がるというか、干渉が大きくならない様に気を付けたりする必要があったとは思うんです、それは自分の立場が障害がある地位で×男性で…となるのでジェンダーに持ち込んで考えると、とても複雑に働くと感じていたから、なんですが。
 こういったことも、どのように考えたらいいのかという事を再び考えた時、これについてはこれまでの通りでもいいのかなと思ったんです。結局、障碍についてはこれから、いつ、どこで社会的にこういったことを話すか、考えを持ち続けるか、わからないので。

あわい、は、考えたんですけど。
ものすごく考えた方だと思うんですけど…

 「あわい」は、5つ持ってるんです。間、人と人、時間と、取り合わせ、機会。でも、人の合間で選択されて一つになっちゃうと、「間」になるんです。だから、「まとめあげ」の時間をあげると、そこから回復して「あわい」になる。

 これなら、「お互いで選択をしていく」立場にも、色々な広がりがあるし。「まとめあげ」を待つという立場にも、それぞれから場を補い合う意味があるから、いいかなって、ひとまず、解釈の仕方として思ったんですが…。
 どうですか?

選択をしていくときにも、「あわい」には五種類もあるので、きっといい選択。周りの”流れ”みたいなものと繋がれるような、選択があるんじゃないかなと思います。広がり方が違うんです。そういったことも話し合っていけるというひろがりがあるといいなと思ったんですが。

ink 003 🥾

 なんだか、とくに、内容は合ってなくてもよいのなら、話します。さっき、みそラーメンを好きな味付けに、コさじの鶏ガラとかオイスターソースとかすり胡麻とか四川の辛豆板醤とかいれたりしてたら、担々麺みたいになって、ポカポカしてるので、ほいほい話したりします。

・仕事を応募しました、先週のとおりです。事務続きだったので、今回はそうではなかったんですけど…、一応、受かりたくて選びましたが、すこし動くので、もし、その時にはこれからのセルフケアの仕方も問われそうですが😭

・えー…、前回の“あわい”ですとかは、例えば三人いたら三人の方が、好きにあわいはこうかな?!と、ああかなと、それかなぁと、話してみたりするというのが、書き手としての私の気持ちの前提にありました。
私は、こうかなっていう
正解、っていうのじゃないんです
・AIから、本当にnoteの関連記事は用語検索のなかで出てくるので、びっくりします。私のは使わないでいいよ…と思ったりはします

・それと“人権”については、“人権”  “人権モデル”について話すのはいいことですよね。ただ、よくよく思っていたのですが、誰かがそばにいて、例えば、“人権モデル”をはっきり使わなかったとしても。私はその人がそばにいることによって、人権モデルで扱われる、条約上の一文を、いっつも秘めていて。すでに行動として毎日してて、選択してきたように思えるだろうな。こういう考えを持っていたからなんです。だから、重ねて、言い直すようなのは特に控えたんです。

 信田先生は、リポストの内容をみれば、憲法:信教の自由における条文に関連した内容を図らずも、お話していたということはあったりもします。ピアの人ならば、それというのは、いつも条約の内容に近しく、本を読み、当事者としての多くの知識から大体から選択されていたのはわかると思います。
 この時に、わかりにくいのは立場も含めて高くはなく、慎重に安定的なアプローチする方の人権モデルの接点だといえるのかもしれませんけど、…私はそういった方が、どういう風に悩むことで、深くそこを通った結果として、その深さがこれみよがしにならなかったんだろうな。と、考えていたんです。
そういった方は勤勉で、社会モデルについても、以前、私から話しをした時には既に知っていたりします。でも、何らかの信念があって、簡単にはわかったと私にはその時に言わないことは理解ができます
・すごく簡単な、有り体なことだけいうと、「誰かから人権を理解されていないと、他人の人権を理解することはない」かもしれません。だから…、というわけです。
・そして、私の信田先生研究であったような、宗教によって世代間の各人の負担がある時には、それが家庭などでは行き来してしまうようなリスクをみた時には、よくないところがあるのかもしれない。それは隠されている暴力などの温床ともなり得るからかもしれない。として、個人的にですけど、宗教二世の問題について疑問に感じたときに描いた話があって
・でも、変な話しをしてるわけではないのです。シェアの人は私にとって神様ではありません。そして、私もまた神様ではないですよね?   (もちろん仏様ということもなくです)
 とりあえず、私たちは普通の人間ですが。だから、私も含め、誰しもたまに正解じゃないことがあること自体は自然かもしれません。(…失敗をそのようにして、いいわけにするのはもちろんよくないんですけど…)
 でも、たとえ何を教わらなくても、すこしばかり限られた真剣さのなかで生きて、何かがすっと出来ているのかは、一応は、そばにいた私が感じ取っていたことがあるのです。
・なんとなく、なんとなく伝えられることは、このくらいです
ほかほか…
ほかほか…


ink 004

 シェアの人用に記事を描いています。
これまでの記事のやく半分ほどなんですが。
 来年以降でないと決定はできないもの、こういうページを残したいと思っていますという事でまとめた記事をリンク先に作ってあります。
 →予定記事
 よかったら。
内容はどちらかといえばさっぱりした感じで、ごちゃごちゃしなくて、難しくならず、かといってはっきりとしたものにはしませんでした。想像するようには上手くは出来ていないと思いますけど、こういう感じに、私は、なってしまったので気に入っていただけるといいかと
ここまでありがとう。(ごめんなさい、これまでも迷惑をかけてしまって)

(○私が望んでいない事もあるんですが、inkのまとめも重くはならないと思います。下書きにほとんどが戻るような形ではないのかな?と思っていますが…)

ink 005
 今回、inkは二つ更新しています。
記事をまとめる最中で、クロスディスアビリティ、母親の方と障碍のある方の価値感の交わりというか、そういった部分が含まれていたので、それについてもまとめてみようとした部分です。ただ、私としては「わからない。」っていう書き方も、もう必要になっているな、と感じているので…そういう書き方も雰囲気としてあります。

おそらくなんですけど。
双方に、価値観は共有する時、誰かのこととして共有はしないんじゃないかな?って気がするんです。それって表から見ても裏から見ても意義は同じはずなんです。つまり、ある方でもとある誰かでも障害のある誰かでも。
誰かのためになる事がないし。障がいのある誰かの為にもなる事がない。
 すると、自然に、クロスディスアビリティっていうのは。自分は一員として相手の事をどうおもっているのかなとか。個人的に「(ものすごく私的な範囲で)このように感じている」とか。そういった所に終始するものというか。つまり、話した内容は全部、嘘ではないんだけど、正確とは言い難い性質というか、目的に活かすとはならない感じがあるというか。でも、無駄ではないとしたら、それっていうのはたとえば、障碍っていうのは、白に対する黒ではない。母親っていうのは、白に対する黒ではない。ここにシェアの人だって”人”としているんです、クロスディスアビリティっていうのは、前回の ink 003で、クロスディスアビリティをも感じ取ったと思うのは、規則や名目に捕らわれず、本当に参加している(た)という意味だと思うんです。だから、また白に対して黒ではない。
 この二極性を安易には生まないようにクロスディスアビリティは、大切にされることがいいんじゃないかなと私は思ったんです。
 白が増えた事を、角に効率的に指した黒によって、盤面を返すというための価値じゃないって、わたしは思います。
でも、関りが対立になり、交渉になる事もある。ただ、それはクロスはしていないから、人権というより、契約上の双方の私権の働きの様なものや、公権を以て民意を伝えるような状態なのかとおもったりはします。そのような効力に直接的にかかわっているのかなと。だから、その時には、それはまったく悪い事ではない、と。

 こんなかんじです…
(長く続けられるといいんですけど、自分を見直すために、すこし休むとかは、あるかもしれないです。いちおう、ないわけではないので。)

10/29
 コマ…、コマドリかなっておもったけど。アニメーション?っていうか、こまかく一場面ごとに動きの変化を観るというか。それとそれを、感覚的にいうと、タイピングのような気がする、細やかに神経を使うんだと思う。さらに大きく、からだ全体を使うんだけども。でも、タイピングみたいに軽やかに体を動かすっていうか、キーボードをたたく神経の力で、それでも身体全体も動いていることがあるっていう軽やかさっていうか。それって手の腹を使うような音がしないタイプなんだと思う。
 最初は手紙や、相手のために記している何かなんだと思う。
 次は神楽みたいなものだと思う…、畳んである腕の動きとかは少し太極拳とか空手の受けっぽいのかもしれないけど、柏手とか、パンって、大きな音ではないんだけど、場を清めるというか。でも、肘が骨に、肋骨の辺りにくっついているっていうか。じつは私ドラム演奏する時、曲目にもよるけど、結構、この体勢で演奏しちゃう…。
身体の事でいうと、下から上へと、骨が積まれてるようなイメージで、身体のそばを四肢が巡るような動きだと思う、月みたいに決まった所をぐるぐる。呼吸は肩ではしない、腕は内旋させて人差し指は立てるイメージで末端にまで捩じりながら負荷を流してって、身体の軸に添うように自分なりの腕の長さとして、そばにおく。「呼吸をしよう」とはしない、胸や肩を使うから、姿勢に軸の骨の体重を合わせると呼吸は起こるとおもう。それは思考した選択肢を追い掛けることでしか物事を自分の身体というのは為せないのではないか?という問題から、脳からの思考として引き離すかんじ、静かに瞑想してる時みたいに呼吸するというのに近いのかもしれない。
 体を動かそうと考え始めているときって、体のバランスを安定している状態から、いずれかに崩していってる時だと思うから、整えていく事で動かしていく事に力を伝えていこう、入れていこう、という事だとすると、そうなると、気持ちがやらないと!という気持ちで身体はもう中心から、崩しながら、うごき出しているんだけど、もし力が入り過ぎっていうのは、つまり四肢が周囲とともに、もう一回、その先で、力を使って動かしてしまってることがある気がする。そうすると軸に上部で連動しながら力を入れつつ、そのため固定している部分からみて負荷がかかりなおすから、そこがしっかりしてないとそこからぶれやすいと思う。私もそうなんだけど、これが何らかの理由で、上手く出来ないと、色々な事を抱えている身体と精神は、すごく疲れると思う。
 人に尽くして、息吹という仮の命が尽きたわけではないんだけど、一会の空っていうか、そういうものへともういったん与えるというか、通すっていうか、すこしづつ行き渡らせるというか、こういうの、一緒に話せそうな内容とは思えないんだけど💦 シェアの人に、すこしはなしてもいいかもしれないな…と、すこし思ったから話しているですけど…。
 まだぜんぜん必要ないかもしれないんだけど

 仕事はひとつ落ちたけど、31日に申請しつつ、まあぼちぼち探すよー


11/01

3月頃までのプロフにあった記載部分についてと、同時に、同性婚を認めない事に対する違憲判決が続いている事、について少し話そうと思っています。それと少し身近な事も。

かといって詳しく話したりするわけではないんです。
 シェアの人に少しばかり話して、少し調整したら、おしまいです。
 性的指向という言葉があって、これはどのような性別の方が、どのような性別の方を好きになるのか、といった意味に限らず。性別という考えを元に、どのような性的指向の方と、どの様な関係性を求めるのか、というような意味があるように思えています、勉強が不足していてまだはっきりわかっていないところがあるとは思うのですが。そして、以前、これが他人によって開示されてしまうというようなリスクについても社会で問題になった事があったと記憶しています。
 同時に、これは誰が誰かを好きになる、というプライベートな部分について含んでいると思う事があります。つまり、これは本当はその人の気持ちは開いてみないとわからない、という部分があるように思えます。それなのに男性が女性を、女性が男性を、いわゆるヘテロという関係であっても、多様性を含めば、その中央一種類に当たるのに自由に開く事が出来ているのは違和感を感じたりしたことがあります。公にする意思について同意があるのなら、それは全く構わないとも同時に思うのはたしかなのですが…。
 今回、わたしが感じた事、考えられた事に関していうと、ここらへんまでだったので。ただ、シェアの人へわたしからは、ホワイトボードが傍にあって、午後の開始で、わたしが部屋の隅からさよならを言おうと顔をのぞかせた時…といえばいいんでしょうか。あなたがなんらか顔を触って見せた時の事ですけど…。わたしにはそう見えたんです。誰にも言う事はありませんが、いちおうあなたの為にはなる様に覚えています。私は細かくわかっているわけではないので、あなたから忘れたいときには忘れてしまっていいですよぅ。

 わたしは、その時に観たものをみて、たしか考えて、プロフの内容を考えたか、より強く思って、その内容を新たに加えたか、残したんじゃないかなって思います。すくなくとも私サイドはその時には好きな気持ちがわからないとは話していたでしょう?くわえて、多汗症もあって大きな不安と混乱があったかもしれないし。
 だから、私の事を含めても、すごくおかしいってこともありません。
 
 それと詳しい事は分かりませんが、もう少し追記をします。
わたしは「味方」と言えば味方ですけど、ただ心理士の方たちが一年以上前SNS上で、「味方」という価値感について話していたことがあるんです。その内容というのは、「味方というのは変化のある価値観である」、ということについてだったと思います。これ自体は問題はないとも思えるのですが、それぞれに考えは自由かなと思いますから。ただその支援上での不利益についても話していたんです。味方という価値では、支援の向きが支援員の都合で変化してしまわないか? その不利益をこうむるのは誰なんだろう?
 このような傾向の文章だったと思います
 いろいろ、考えられる部分もある論点だと思います。… 

 それと仕事は探しに行って、わたし現実の健康や実情と、現実の必要な仕事というのが、複雑な形で考えとして浮かんでいたのがこの一か月間だったかと思います。昨日は、窓口で”販売”の書類を持って行って、企業の情報開示を依頼したんですが。その代わり、いくつか説明会などを進めてもらって、”事務”の推薦が多かったので、話を聞いて事務を選択して、説明会などの応募の方を、優先して、少し期日は遠いのですがさせてもらいました。

 前回の記事は、じつは先があるのですが、予想とあまり聞いた事のない論点なので。私が無理をして話さなくてもいいのかなというトコロで。話はしませんが、すこし気にかかった時期があったから、なんとなくです。

 次は、わけてありますが…、すこし福祉関連の記事です。


*それと、ピアの方へ。
少し視点をそばにと思っているところ、こちらで少し趣向の違う部分で恐縮なのですが。実はずっと調べていた内容が、最近ちょっとずつ検索に引っかかって見つけられたので私用と言えばそうなのですが、ちょっと置いておきます。

 ウクライナの障碍者の方は、たとえば自閉症の方は「音量が苦手」なはずなのに、どうしているんだろう?そう疑問に感じて、当時から調べ物をしていたのですが、検索が下手なのか、上手く情報が見つからなかったり、その時にはちょうどグーグルの地図が閉鎖されたりしてしまっていて、当時は、私が欲しい情報が見つけられませんでした。

さいきんは見つけられ。

 ウクライナの障碍者へ「生き延びて」日本の障碍者が祈り込めた詩

 ウクライナ支援、車いすで未来を作ろう(先の記事にはリンクもあり、プロジェクトオーナーとの責任についてページには記載されています。興味のある方は確認していただけるといいと思います)

こういった事があるんだと、ほんの少しわかりました。ウクライナに限った視点ではなくとも、環境にとても敏感な方がいます。発達の障害といっていいのかな(現場を離れると言葉遣いも疑問に感じたりするのですが…)
 そして、知的な問題でご家族も含めて悩んでいる方がいるかもしれず、その生活、そういった障害のある形の支援について、それは通常の文化圏内でも十分に支援が難しいはずなのに、いったいどうなっているんだろう?とずっと感じていたので。
考え貯めていた部分の、ちょっと現状の気持ちを示したものになります。