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教えることと学ぶこと

新年の高揚感が少し落ち着いたこの時期、大学は集中講義シーズンを迎える。

私は昨日から3日間に渡る集中講義のTA(ティーチング・アシスタント)を務めるべく、所属大学の別キャンパスにせっせと通う日々だ。

ふだんは起きる時間も研究する時間も気ままな大学院生のわたし。(そのへんの大学生よりも自堕落…)そんな生活に慣れきった身体に連日の早起きと長時間労働はだいぶ堪える。

集中講義は学生にとって、1日の拘束時間は長いものの、3日や4日の短い期間に単位を取れるため予想外に結構な人数が押しかけることも多い。今回私がTAを務める授業の受講者は120人。教室もワンフロア4つを貸し切って1大イベント状態だ。

1日の講義時間も1〜5限と銘打っていても、実際には少しコンパクトになることも多い。先生だって1日喋りっぱなしは疲れるからね。文系の授業では、1日をフルに講義時間に充てられる利点を生かし、教室を飛び出してフィールドワークを行ったり、先生も学生が寝ないように(笑)あの手この手を繰り出してくるから、学生にとっても普段の授業よりは飽きが来ず、手っ取り早く単位ができるまさに「おいしい」授業であるようだ。自分も学部生のころはこの「おいしさ」にあやかって、たくさんの集中講義をとって単位を稼いでいた。

ところが授業を運営する身となると、集中講義はとてもシビアなものだ。なんといっても長い。長い授業をどう組み立てるのか、1日のなかに次々と後の授業が詰まっているから、学期中の授業のように「その日の反応を見て1週間準備して組み立て直そう」なんてことがきかない。だから授業前の緻密な準備が授業全体の成否を決めるといっても過言ではない。

今回の授業は3日間にわたるグループワーク中心の探究学習。120人に指示を通し、私はTAながら授業の一部を担当するなど、朝からかけまわって息つく暇もない。

そんななかで感じていることがひとつある。

教えてみると、気づかされることがたくさんあるなぁ、ということ。

自分が講義を受けたり、本を読んだりしているときよりはるかに、教えているときのほうが学ぶことが多い。特に今回はグループワークがメインだから、学生たちが試行錯誤してつくったモデルの発表や不意に投げかけられる質問を通じて「ああ、そんな考え方もできるなぁ」と膝を打ったり、「ここでこういう教示をしたら、学生の学びの質はもっと高まるなぁ」とか「この授業構成だとこういうポイントは抜けてしまうなぁ」とか、そういうたくさんの発見がある。

そう、私は教えることを通じて「何を教えるか」と「どうやって教えるか」を同時に学んでいる。

わたしは教育学を専攻していて、もちろん教員免許も持っているけれど、ぼんやりと自分は中学校や高校の先生には向かないなぁと思って、現場でがんばる学校の先生たちを支えるべく研究者の道を選んだ。それはシンプルに自分には教えることができないから、という理由からだった。大学生の私は「教える=知識を与える」ことだと思っていた。だから知識が不十分なわたしには先生は向かない。ボロが出たらこわい。そんな感じで「教えること」をずっと遠ざけていた。

でも実際に図らずも大学生に「教える」ことをしてみると、「教えるって学ぶことなんだなぁ」としみじみする。何を伝えようか、どんな声かけをしようか。マイクを握っているとき、先生たちの頭はフル回転。先生たちも教えることで学んでいて、教えることによって知識が増えたり、考えが深まっていくのだ。

ですのでね、自分が学びを深めたかったら積極的に教える側に回ってみよう、なんて思ったのだ。すぅっとかすかな音を立てるように、私の中の苦手意識が崩れていくのを感じる。教えるために完璧な条件なんてなくて、ずっとずっと教えていくうちに学生や生徒と一緒に先生も学んで鍛えられていく。

集中講義もあと1日、なんとか切り抜けられそうだ。

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