宝箱をかかえて

連休最終日に引越しを控えて、今日は朝から人生6度目の荷造りに勤しんでいる。大学入学を機に一人暮らしを初めてちょうど10年。その多くは進学など必要に迫られてする引越しだった。迫る期日、新天地での生活に想いを馳せる余裕も、それまでの生活を惜しむ余裕もなく、ただただ慌ただしく片づけをし、荷物を積み、急ぎ足で去っていくばかりだった。

今回の引越しは、そういった迫られた引越しではなく、「よし、環境を変えよう」というめずらしく自発的なもの。新居も、現在の住居から徒歩にして15分ほどのところで、地名も、区名もほぼ変わらない。だから荷造りものんびりじっくり取り組めている。

シェアハウスからシェアハウスへの引越しは身軽なものだ。家具もないし、家電もない。大量の本と洋服、それがわたしの財産のほとんど。新居が5.5畳と手狭だから、研究で使う本はすべて大学に移し、これまでの講義プリントや紙資料は思い切ってすべて電子化して破棄することに決めた。

引越しで「要るもの」と「要らない」を選別していく作業は思いの外、いまの自分にとって本当に必要なものを見極めるのに役に立つ。前回の引越しでは「大事!」と思って手放せなかったものでも、数年経てば、そのものに対するトキメキは失われ、すんなり手放すことができたりする。よく母には「使わないものたくさんため込んで!」と怒られるけれど、手放すためにその年月が必要だった、と考えれば、決して段ボールの中で寝かせていた時間は無駄ではなかったはずだ。

しかし中には、トキメキを感じる訳ではないけれど、トキメキとは別な感情を刺激して、結局捨てられないものが多数ある。そうした小物を、クリームがかった水色が美しいイギリス土産のお菓子缶に「宝物」としてしまっておくことにした。

大学受験の時、親友が手縫いで作ってくれたお守り(大学には無事合格!)、小学生のころ、体調を崩した母が休職中に作ってくれたフェルトの小銭入れ(当時、わたしは「お母さんの手作り」にすごく憧れていた)、教育実習の最終日に撮ったクラス写真(いまより10キロくらい太っていて顔がパンパン)、まだ大学生の頃、就職を目前に控えてお金がなかった恋人がホワイトデーにくれた手紙(さっき読んで号泣した)…

どれも「お金」という枠組みでは価値を持たないものばかり。けれど、相手を想って書かれた手紙や作ってくれた小物に込められた気持ちは、時間が経っても色褪せないばかりか、なんだか勇気を与えてくれるから不思議だ。

この宝箱はわたしが「生きた証」そのもの。宝箱のふたを開けると、「あの頃のわたし」にいつでも出会えるのだ。そして、「あの頃のわたし」が「いまのわたし」を支えていることを強く実感する。自分に厳しく、がんばっても自分を褒めることが苦手なわたしが、「うん、わたしも頑張ってきたなぁ」「みんなに愛されていたんだなぁ」と自信と元気を取り戻せる魔法の箱。将来の夫には、私が死んだら棺桶に入れてくれるよう頼むつもり。




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