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第17回東京大学五月祭記念弁論大会の感想

2023年5月13日(土)、東京大学五月祭記念弁論大会に伺いました。

僕は危機感を抱きました。

ちょっとこれは早急に発信したいので、各弁論の感想とともに、寝る前に言語化してみます。
弁士が多いので、感想が長いです。

さて、大学生活も折り返しに入り、学生弁論界では「上級生」と呼ばれ、「老害」に差し迫っております。しかしまだまだ未熟者ですので、このnoteへのご意見、ご批判などをお待ちしております。
またこのnoteはあくまで僕個人の感想ですので、そんな意見もあるのか、程度に読んでいただけますと幸いです。

各弁士の感想に先立って、大会を運営してくださった東大弁論部の皆様に深く感謝申し上げます。
大学の学園祭の中で弁論大会を開くのは、東大と早稲田だけでしょうか。ご苦労が身に沁みて分かります。お疲れ様でした。
それとこれは東大の大会で毎度思っていることなのですが、YouTube配信のクオリティが本当に素晴らしいのです。土曜に授業があるため途中で一時離脱し、道中に中継で弁論を拝聴させていただきました。


〜各弁論の感想〜

第1弁士 「行雲流水」(学習院大学)

会場外のイベントのBGMが大きすぎて、YOASOBI『群青』が出囃子のようでしたね。
(「欲望」は「知らず知らず隠してた本当の声」なのかもしれない…)

弁論の冒頭で、「不満感情による苦しみを払拭するための考え方を共有すること」が目的であると明示していました。
この弁論においてこれはとても効果的で、第1弁士ながら聴衆はすぐに弁論を聴く準備ができたと思います。

欲望を抑えることが、別の欲望を抑える手段になっている。
どんな行動をしても、それは欲望のままの行動であると言える。
欲望は変動するものだと自覚すべきだ。
欲望に従って生きよう。

僕はこのような論旨と理解しました。
とすると「欲望のままの行動」をしている人間に対して「欲望に従って生きよう」と提案するのは、何も変わらないではないか、という疑問がずっと残ってしまいました。
そのため、弁論を通して「説得」されることは残念ながらありませんでした。

しかし「欲望を抑えることが、別の欲望を抑える手段になっている」という分析には目新しさがありました。
聴衆への行動変容の提案という点で、あと一歩の新規性を期待します。

声調や態度、テーマ設定や論じ方までの全てが、弁士の個性がそのまま現れているようで、とても好印象です。
数度目の大会出場だと思いますが、実はもっと話して仲良くなりたい弁士です。


第2弁士 「ほっとした」(日本大学)

まず、根本の問題意識には非常に共感しました。
性犯罪者(特に再犯を繰り返す者)には、背景に何らかの精神障害があるケースがかなりあるようです。刑事施設では認知行動療法ベースの治療を試みるのですが、刑期満了になると治療が中断されてしまい、根本の精神障害が治らないために再犯してしまうという問題があります。
このあたりを委員会で扱うために、4日前にレクで関係部局(法務省矯正局・法務省保護局・厚労省障害保健福祉部・警察庁生活安全部など)とやり取りしたばかりでして…個人的に医療政策、とりわけ精神保健福祉に触れる機会が多いので、専門的な視点で弁論を聴いていました。

「性依存症」はあまりに広い言葉で、それ自体は病気を表す医学用語ではありません。医学的にも論点を絞るべきだったように感じます。
「性依存症を扱うクリニックが2%しかない」というのは、この勘違いに起因する気がします。

医学教育が解決策になるというのも、僕は疑問が残ってしまいました。
これも極めて個人的なある理由で医学部事情に触れる機会が多いのです…。
講義のコマが多い診療科の医者が多いわけではないですし、そもそも精神科の専門医を取得するのは卒業後、さらにその後の専門分野としての「性依存症」なので、学部レベルでの教育はほとんど影響しないように思います。

冒頭の問題意識が僕のものとほぼ同じで驚きました。
行政の実務上も今まさに取り組んでいる課題ですので、解決策の立案は難しかったと思います。


第3弁士 「豊葦原千五百秋瑞穂国」(國學院大學)

新入生への言葉から始まるつかみが好印象でした。
(が、僕のパロディなのか…!)
僕の弁論に言及(引用?)していただきまして、小っ恥ずかしいのですが嬉しいものですね。

昨年の五月祭で僕は惜敗(選挙用語)したわけですが、賞状よりも大きなものをいただいていたのですね。
学生弁論界で出会えたことを心から嬉しく思っています。
君が僕の弁論に憧れた(と言ってくれている)ように、僕も君を尊敬しています。そして僕は、君は早くに政治家になるべきだと思っています。まあ、そんな話は数年後に。

さて、農業政策は僕が最も苦手とする分野でして、基礎知識ゼロで弁論を拝聴しました。
正直なところ、難しい弁論でした。
「農地バンク」という言葉も初耳で、全農家を加入させるとなると、ある種の「強制」が生じるわけで、なんだか抵抗感があります。

ほぼすべてが初耳の議論でしたので、ふーん、なるほどなあという感想です。
レセプションでお話しして、また動画を再度見たら概ね理解できました。
政策の妥当性はある程度あるでしょう。少なくとも実際に検討する価値はあると思います。

論理や政策、声調や質疑、ユーモアなど、あらゆる面で高いレベルに仕上がっていました。学年が同じなのであまり意識しないことですが、弁論歴としては1年なわけで。
この弁論は入賞するはずと予想していました。

強いて言えば、題材がマニアックなものであったため、丁寧な説明が必要だったように思います。
冒頭のつかみを減らしてもよかったのでは…?(赤面)


第4弁士 「迷わぬためのお守り」(法政大学)

自衛官の保険自衛官が殉職した際にもらえるお金が少ないため、生命保険を充実させるべきだ、という論旨でした。

野次で「賞恤金」という言葉が登場しました。
これをきっかけに多くの聴衆が手元で検索し、それでいいじゃないか、という反応になったと思います。
即時的な弁論内容への指摘という、野次の目的のひとつがよく現れた瞬間でした。

現状でも殉職した自衛官は相当な賞恤金をもらえるわけで、平時にそれがもらえない場合には生命保険、という棲み分けがあるのではないでしょうか。
仮に有事に大量の殉職者が生じると、保険組織で給付を賄うことは不可能でしょう。ですから有事には賞恤金なのではないでしょうか。
問題設定と解決策の両方に疑問が生じてしまい、それが最後まで残ってしまいました。

防衛関係の弁論を、自己言及性をもって訴えることができるのは、弁士の唯一無二の強みです。
どうぞこれからもそれを生かしていただきたいです。
(ご自身で事業をなさっていると以前聞いた気がします。そちらも応援しています。)


第5弁士 「利益衡量」(中央大学)

人権など法学の難しい話なので、ゆっくりな声調でとても理解しやすかったです。

ただ、論理展開が恣意的に思えました。
「人権」は「被害者遺族の権利」「知る権利」の2つだけではありません。
冒頭に「個人情報」とおっしゃっていましたが、それは被害者の人権であって、その主体が死亡したのであれば人権は消滅します。被害者の権利と被害者遺族の権利を一緒にして議論するのは不適切でしょう。
また国民全員が持つ「知る権利」というあまりに大きい話ではなく、各社の「報道の自由」に目を向けるべきではないでしょうか。表現の自由も大事な権利です。
要するに、被害者の実名報道は「利益衡量」によって判断するべきというのはその通りなのですが、何と何を比べるのか、というのが恣意的であるということです。

また、構成が不自然に感じました。
「導入」「現状分析」ときて、あからさまな「理念」パートが入って「原因分析」「政策」という流れでしたが、接続に違和感がありました。
「導入」「現状分析」「原因分析」「理念」「政策」という素直な流れに整理すると分かりやすかったように思います。


第6弁士 「Underway on nuclear power」(芝浦工業大学)

第6弁士からYouTube中継で拝見しました。

これは聞きながらの直感なのですが、1文1文の表現や、文の繋ぎ方に光るものがあったように思います。時間の関係か少し早口だったので相殺されてしまっているとはいえ、文章で読むとたいへん分かりやすい原稿なのでしょう。

さて、この弁論のテーマは演題の通り「原子力潜水艦」でした。
僕は安全保障戦略や戦術レベルの軍事にも興味があるのですぐ理解できるテーマなのですが、多くの聴衆は潜水艦と言っても想像がつかないのではないでしょうか、と思いながら聞いていました。
軍事オタクの弁士 vs 軍事オタクの聴衆 の質疑になってしまい、詳しくない聴衆が置いてけぼりになっていた印象もあります。

映画『海底2万マイル』のノーチラス号
ビートルズのイエロー・サブマリン(僕の大好きなアルバムのひとつです)

海上自衛隊の通常動力型潜水艦では中国の原潜に対抗できない、だから海自に原潜を配備すべきだ、という論旨でした。

個人的には論旨には賛成できません。
日本の強みであるリチウムイオン電池による長い潜航時間、非大気依存推進による海中での充電など、日本の潜水艦は「世界最強の通常動力型潜水艦」とも言われます。また原潜は原子炉を止めることができないため静粛性の面で海自の潜水艦に劣ります。
日本の潜水艦は海の向こうまで遠征して攻撃するわけではないのですから、「通常動力型潜水艦による、"沿海域においては"世界最強の潜水艦隊」という現状はそのままで良い、と思っています。

とはいえアメリカの最新型の原潜は静粛性の面での改善がみられ、海自のそうりゅう型潜水艦よりも静か、とする情報もあるようです。
また日本が原潜を保有することには、予算や世論、海自のキャパシティや外交関係などが問題ないと仮定した状況であるならば、戦術レベルでの選択肢の多様性の確保や、戦略レベルでも相手に多様な対策を強いることができるといったメリットがあります。
ですから、弁士の主張にも一定の理解をしました。
こうしたさまざまな思考レベルでの議論は、アメリカの国際政治学者エドワード・ルトワックの『戦略論』という本に詳しいので、ご興味のある読者のみなさまは是非お読みください。
(若干クセの強い文体・陸上戦闘が中心ではありますが)

難しいテーマの中で大健闘していたと思います。


第7弁士 「ツナガル」(早稲田大学)

手堅い弁論でした。

しかし、弁士の言う「命を守る」というのは、「大規模通信障害」時の「事故・急患」で、さらにそのうち「重度」のものなわけです。
弁論として扱うにはかなり狭い話なように感じました。
とはいえこれらの状況が重なるのが解決すべき問題だという前提に立つのならば、極めて妥当な弁論でした。

自大の後輩なのであえて厳しく言いますが、この弁論は入賞はすれど、優勝する弁論ではなかったはずです。
とても難しい要求なのは重々承知ですが、なにか一つ頭抜けるものがある、そうした弁論で優勝してほしかった。君が極めて優秀であるということを分かっているからこそ、小さくまとまってしまったのは残念に思っています。
(と身勝手に論じておりますが、自分もなかなかそういう弁論を書けないのです)

質疑への返答も的確でした。
何より声が良い。
理工学部の君が学生弁論界で大活躍しているのもなんだか嬉しいです。
学生審査賞も獲得したのは、聴衆を「説得」できていた証拠ですね。
優勝おめでとう。今後の活躍にも期待しています。


第8弁士 「性同一性『障害』」

こちらはYouTube録画で大会後に拝見しました。

なんと、1年生なのですね。
新入生が見学に来るので各大学のエースが集結という大会だと認識していたので驚きでした。
(新人弁論大会の前に新入生が登壇するとは…笑)

おそらく弁士の頭の中に、漠然とした、それでも強烈な問題意識があるのだと思います。
しかしその問題意識に含まれる具体的な課題がひとつひとつの論点のカタマリとして弁論原稿に抽出された結果、論点設定が不明確だったように感じます。

僕は弁論の目的は「説得」にあると考えています。
特に本大会は審査基準が「説得力100点満点」と示されています。
ゆえに、「何を」説得するのか、つまり論点設定が明確でないと、聴衆としても混乱してしまいます。
ここは弁論を書き始める前段階での議論で行うべきことですので、弁論部の仲間の力も借りるところでしょう。

要は「特別扱いされるのが嫌だ、迷惑なこともある、それを理解しよう」といった問題意識なのだろうと、僕は解釈しました。
ある種「当たり前」で、難なく同意できることです。
このまま論点にするのではなく、「そのためにどうするか」という行動変容を聴衆に促せたらもっと良い弁論になったのではないでしょうか。

とても力強く、堂々としていて、入学して1か月とは思えないほどです。
弊学の新入生にとっても刺激になったのではないでしょうか。
今後のご活躍に心から期待しています。


第9弁士 「故郷」(東京農業大学)

ここで授業から戻り、弁論はYouTube中継で、質疑からは会場で拝見しました。

落語のような軽快な導入で始まり、しっかりと笑いをとっていました。
いやあ、上手いですね。

さて、大変申し訳ないのですが、僕はこの弁論には全く説得されませんでした。
弁士の言う「愛国心」が「国をよりよくすること」と定義されるのであれば、それは当然容易に受け入れられるものです。

解決策は「心の中の日本を大きく鮮明にする」とおっしゃいました。

ちょっとこれは、意味が分かりませんでした。
結局どういう効果があるのでしょうか。
良いことをした気になる、そういうレベルの話なのではないでしょうか。
イデオロギー達成により高揚感を得る、それだけなのではありませんか。

しかもそのイデオロギーは、「愛国心」というなんだか格好いい、心が昂る言葉なのに、その内実は「国をよりよくすること」という至極普遍的なものなのです。

おそらくこの弁論に「説得」される方は、弁論が始まる前から「説得」されているのでしょう。

弁論の最後に弁士が『ふるさと』を歌ったとき、拍手が起こりました。
あのとき僕は強烈な違和感と、恐怖を抱きました。
この気持ちをどなたか分かっていただけるでしょうか。


第10弁士 「狂」(明治大学)

第2弁士と同様、個人的に少し詳しい分野でした。

第2弁士の「性依存」、第10弁士の「ホスト依存」というのは、俗語です。
病気を表す医学用語ではありません。

第2弁士のような矯正医療のテーマでは、「法的・行政的アプローチではなく、医学的アプローチで解決すべき」となるのですが、第10弁士では逆で、「医学的アプローチではなく法的・行政的アプローチで解決すべき」であると思います。

「ホスト狂い」は何らかの病気に含まれることがあるでしょうが、それはその病気として診断の仕組みがあるわけです。もちろん背景に発達障害やうつ病などがあるケースも考えられ、その場合にも解決策はすでに存在します。

ゆえに、ミイラ取りを増やす=医療を充実させるのではなく、ミイラを減らす=ホスト業界をなんとかする、という方向性のほうが、弁士の問題意識に合致したのではないでしょうか。

ユニークな問題意識を政策弁論に落とし込むのは、さすが明治大学といったところでしょうか。
聴いていて面白い弁論はそれだけで価値があるように感じますので、あまり突飛でなければ好印象です。


第11弁士 「包摂を超えて」(東京大学)

力強い声調で聞き取りやすく、熱意も伝わる弁論でした。

「同質性の檻」という言葉は頭に残ったのですが、弁士が何を説得したいのかが最後まで分かりませんでした。
檻から出よう、挑戦していこうというのは別に当たり前に導かれることなので、結何が言いたかったのでしょうか。これはおそらく、僕の価値弁論に対する理解力の問題もあると思います。

また、論理展開に根拠がないように感じました。
根拠と言っても別にデータを示せというのではなくて、ひとつひとつのトピックを繋げて演繹的に導いてくれれば良いのです。

聴衆の反応は盛り上がっていましたが、それは説得されたからではなく、弁士の声調の勢いによるものでしょう。
(とはいえ、声調で盛り上げるのも弁士の技量ですね)


〜大会全体の感想〜

今日の大会に参加したことで、これを知れてよかったなあ、こういう分析の観点があるんだなあ、といったものはありませんでした

弁論はレポートではありません。
少し、残念でした。

せっかく弁論大会の会場に来て、時間を費やして弁論を聴いているわけなので、新たな知見を持ち帰りたいものです。

さて、ここから細かい話に入ります。
繰り返しですがあくまで僕の感想に過ぎませんので、そういう意見もあるのか、くらいに読んでください。

※行政学畑とはいえ政治学科の人間なので「ポピュリズム」という言葉を人並みには咀嚼してきたつもりではありますが、あまり深い話をする場でもありませんから、「ポピュリズム」が何を意味するのかという翻訳はせずに「ポピュリズム」という原語そのまま使用します。強いて言えば「大衆煽動」といった意味合いに近いです。ここの曖昧さはお許しください。
※これまでも、ここから先も、学生弁論界全体に関するお気持ち表明です。特定の弁論や聴衆を批判するものではありません。本当にそういう意図はありませんのでご理解ください。


「ポピュリズム」?

勢いで聴衆に訴えるが、よくよく聴くと中身がない、何を言っているか分からない。
それなのに聴衆が熱狂している。

そういう弁論を「ポピュリズム弁論」と、自分の中では呼んでいます。

どの弁論とは申しませんが、昨年末から今回の五月祭にかけて、そうした弁論が出現してきていることを危惧しています。

さらにその数が1つ、2つと増えてきているように感じます。


「ショー・ストッパー」?

突然ですが、中高で私がやっていた演劇の世界には、「ショー・ストッパー(Show Stopper)」という言葉がありました。

演出や演技があまりに素晴らしいため、拍手が鳴り止まず、にショーが止まってしまうこと、その拍手のことを言います。

今回の大会では、拍手が多かったように感じました。
これは多くの方が気づいたのではないでしょうか。
(そう信じたいです)

これは「あまりに素晴らしいため」なのでしょうか。

そうではないと思います。
別に拍手が必要ないタイミングなのに、どこからか拍手が湧き上がっていました。

しかも拍手というのは、最初に手を叩いた人から徐々に伝播していって、会場全体を巻き込み得るものです。
伝播するには、それなりの時間がかかります。
しかも拍手が止むまでには逆の過程を辿るので、さらに時間がかかります。

拍手により弁論が中断された場面が目立ちました。

これで良いのでしょうか?

僕は、好ましくないと思います。
弁論の論理の流れを遮ってしまっているからです。
そのため、僕は弁論中には拍手をしませんでした。

しかし周りは拍手をしている。
拍手は音量が大きく、数名であっても雰囲気が呑まれてしまいます。


「衆愚政治」?

どんな弁論にも、多少は煽動する部分があるでしょう。
しかし、その部分へのリアクションの質が、昨年までとは違ってきているように思います。

「おお〜っ!?」「そうだ〜!」のような、むしろ聴衆側が煽るような野次。

新入生が多い大会だからだ。次は大丈夫、と信じたいです。
ですが、そうではなかった場合を危惧しているのです。

僕は野次はかなりする方ですが、それでも信念があります。
それは「弁論に対する即時的な瑕疵の指摘」です。
(とはいえ音量や頻度の問題があるので、最近は反省して控え目にしています)

煽る弁士、さらに煽る聴衆。
この構図が本当に怖いです。

今回の大会では、「ポピュリズム弁論の出現」という演壇の上だけでの問題から、さらにもう一歩先の段階に踏み出してしまった気がしてならないのです。

聴衆の側に、「ポピュリズム弁論」を受け入れる素地が出来上がってきてはいないでしょうか。


今後に向けて

今日の大会会場の雰囲気は異様に感じましたが、まだ困惑している最中というのが正直なところです。

少なくとも弊会は「ポピュリズム弁論」ではないものを出し続けているはずです。
目下、そこを堅持していこうと思います。

そしてやはり、聴衆審査の結果がどうなるか、これが聴衆の雰囲気を直接反映するものでしょう。

僕は学生審査は聴衆審査からの統計的ピックアップであると理解しています。
とても恐れ多い話なのですが、今回の五月祭で弊会が学生審査賞をいただけたということは、まだ「ポピュリズム弁論」を受け入れる土壌は完成していないということです。

これが今後半年くらいでどうなっていくか。
心配しています。

さしあたり、このnoteで一番申し上げたいことは、
拍手は慎重にしてくれ」
ということにしておきましょう。


未熟者ですが長々と述べてみました。
ご意見、ご批判、ご指導をお待ちしています。
無料版noteですとコメント機能がありませんので、著者に直接ご連絡ください。

それでは皆様、五月祭お疲れ様でした。
次は新弁でお会いしましょう。

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