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神の聖なる日-7

古い契約の意味

 ある日、教会で説教を終えた後、皆さんとあいさつを交わすため入り口の方に向かって歩き出していたら、急に3人の青年が前に私の前にやってきました。そのうちの一人が、私に大きな声で尋ねました。「先生、今日の説教では十戒に対する従順を強調しておられましたが、まるで私たちが、古い戒めの下におかれているかのように話しておられました。私たちは今、新しい戒めの時代に生きているのではないでしょうか?」
青年は、十戒は古い戒めで、それは十字架上で廃されたものであるから、恵みの下に生きる現代のクリスチャンは、もはや十戒に拘束されないものだと信じていました。

 その青年の発言は、今日、十戒に対して多くのクリスチャンが持っている確信を反映したものだと思います。しかし、そのような確信は、聖書で立証できるものでしょうか?私たちはこの問題を、聖書という基準によって正しくとらえるべきだと思います。十戒の教えが教会の中できちんと説かれなくなった事が、現在のキリスト教会の世俗化の大きな原因ではないかと思われます。
 もし、国家の法律が廃止されたり、不必要だという意見が国民の中に強くなり、法律を無視したり、都合のいい所だけ守るというようになったら、その国はどうなるでしょう。あらゆる犯罪や不道徳が広がるに違いありません。同じように、クリスチャンが、戒めを無視したり、軽んじたりするなら、教会は自分勝手な話が飛び交い、秩序も、敬虔さも失われ、世俗そのものになっていくことでしょう。

契約の定義

 まず契約ということについて考えてみましょう。契約には、様々なかたちがありますが、基本的にそれは、お互いの約束と誓いに基礎をおいた、双方の合意を意味します。各時代を通して神様は、人との契約に基づいて、ご自身の民を導かれました。神様は時には、個人と契約を結ばれ、またある時は国家と契約を結ばれました。時代、場所、環境によって少しずつ異なった形で契約が結ばれましたが、神様の契約の条件は常に不変であって、「従えば祝福、従わなければのろい」というものでした。

 今日の多くのクリスチャンは、契約に対する先入観を持っているために、次のような聖書の言葉を用いて、古い契約と新しい契約には違いがあるのだと主張します。
「ところがキリストは、はるかにすぐれた務めを得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。もし初め〔古い〕の契約に欠けたところがなかったなら、あとのもの〔新しい契約〕が立てられる余地はなかったであろう。ところが、神は彼らを責めて言われた、『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。神は、『新しい』と言われたことによって、初め〔古い〕の契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく」(ヘブル人への手紙8:6~13)

 この言葉は、あたかも古い契約に問題があったために、“さらにまさった契約”である新しい契約が結ばれ、古い契約は古びて消えたのだと説明しているように見えます。それでは、神様の戒めを心と思いに書き記す新しい契約とはどのようなもので、古びて消えて行った古い契約とは何だったのでしょうか?そのことがはっきりするなら、この聖句に対する正しい理解が与えられることでしょう。

廃止された契約は十戒ではない

聖書には廃止された契約に関する記事が出ています。そこで、ある人々は廃止された契約とは十戒であると思っています。しかし、廃止された契約に十戒が含まれていないことは、次の三つの聖書的証言をあげることができます。
 
第1の証拠:パウロは“さらにまさった約束、さらにまさった契約”という表現を通して、古い契約に何らかの問題がある事を言っています。ではもし、十戒が古い契約そのものであるとするならば、十戒の中でそのような問題点、何か貧弱な約束を探し出せるでしょうか?『ヘブル人への手紙』の著者であるパウロは、『エぺソ人への手紙』の中で、十戒の道徳律がとても良いものであると語っています。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、『そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう』」(エぺソ人への手紙6:1~3)。
パウロは、ヘブル人への手紙の中では、十戒が古い契約で欠けたところがあると言い、エペソ人への手紙では、幸福になる正しい教えであると、矛盾したことを言っているのでしょうか?そうではなく、ヘブル人への手紙8章の、欠けたところのある契約とは、十戒ではなく、旧約時代に繰り返された、キリストのひな型である犠牲制度の律法であったと見るべきなのです。

 第2の証拠:古い契約が十戒ではなかったことを示す、最も強い証拠は「古い契約に欠けたところがあった」と言われている言葉の中にあります。「もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう」(ヘブル人への手紙8:7)と言われています。仮に、十戒が古い契約そのものであったならば、私たちは神様が手ずから石の板へ書き記された十戒の中から、何かの欠陥を発見しなければなりません。
詩篇を書いたダビデと、使徒パウロは、この問題に対してどのように語っているか聞いてみましょう。
「主のおきては完全であって魂を行きかえらせ」(詩編19:7)
「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」(ローマ人への手紙7:12)
明らかに十戒を意図しているこれらの聖書箇所で、おきてや律法が、何か貧弱で欠陥があるものとして描写されているでしょうか?いいえ、かえって、完全であり、善なるものであると宣言しています。完全であるとは、どんな欠陥も探し出せないことを意味しています。

 第三の証拠:「神は、『新しい』と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく」(ヘブル人への手紙8:13)。ここで使徒パウロは、古い契約は廃止され消えていったと、強い表現を使って述べています。古い契約が十戒をさしているのだとすれば、神様の道徳律である十戒が古びて消えていったことになります。しかし、パウロの律法に対する立場は、「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうでははい。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ人への手紙3:31)。このように語り、律法が信仰によって確立されていくべき、重要なものであることを教えています。こうして私たちは、古びて消えていった古い契約が、十戒を指しているのではないことを確認することができます。

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