見出し画像

クイーンからみたハルヒシリーズ論

はじめに

『後期クイーン問題』という言葉をハルヒ読者なら一度は目にしたことがあるだろう。見たことはあっても、クイーンがなんのことだか分からないというハルヒ読者もそれなりにいるのではないだろうか。

本稿はクイーンとハルヒに存在する共通点という豆知識を紹介しながら、ハルヒシリーズに対する新しい切り口を提供することが目的である。クイーンに興味を持ったりハルヒを深く考察したりするきっかけにしていただければ幸いである。

クイーンの作品とハルヒシリーズの共通点

いまさら説明することではないかもしれないが、クイーンとはなにか、という基本的なことから述べていこう。 

クイーンとはエラリー・クイーンという作家であり、また、クイーンの手による数々の小説作品(別名義発表の作品も含む)をさす。『後期クイーン問題』のクイーンは、後者の意味で用いられているというわけだ。

『笹の葉ラプソディ』のラストシーン、タイムトラベルがもたらす因果のループに疑義を呈したキョンに対して長門がゲーデルを援用して「無矛盾な公理的集合論は自己の無矛盾性を証明できない」と返すシーンがある。
チェス盤を挟んだ古泉が「もっとも我々の場合、キングにたいした値打ちはないのですよ。より重要性があるのは、あくまでクイーンなのでね」などとはぐらかす。チェスの駒とハルヒをかけているように読み取れるが、それだけでなく不完全性定理と『後期クイーン問題』を引っかけていたのだとしたら、古泉のミステリへの傾倒ぶりはこのときからモノホンだったといえるだろう。

『涼宮ハルヒシリーズ』の著者である谷川流先生は、ミステリやSFへの造詣が深く、シリーズの随所に影響を感じられる。
上の例のように、ハルヒシリーズにはクイーンをはじめ、本格ミステリに言及したりそれらの作品を連想させるような表現が織り交ぜられたりしている。
本格ミステリとして名高いクイーンの作品群から影響を受けている部分があってもなにもおかしくはないのである。特に『直観』に収録された最新作『鶴屋さんの挑戦』(以下『挑戦』とする)においては、「読者への挑戦状」というキーワードがクイーン作品を絡めて論じられているシーンがある。

『直観』をきっかけに、クイーンの国名シリーズを中心にいろいろと読み返してみたのだが、前述のような細かい場面場面に限らず大きな枠組みにおいてもハルヒシリーズにはクイーンっぽさを感じさせる部分があることに気がついた。下記の3点を今回は取り上げたい。
・年号の不定性
・登場人物の匿名性
・主人公による回顧録

なお、本稿の趣旨は、ハルヒはクイーンをなぞっていると主張するものではなく、なんとなく共通点がありそうな部分を取り上げるに過ぎない。谷川先生が該当部分を意図してクイーンから取り入れたと断定するものではないことをあらかじめ断っておく。
以上の3つの共通点について述べた後に、そこから見えてくるハルヒシリーズの特徴的な構造について論じてみたい。

年号の不定性

映画『となりのトトロ』は西暦何年の設定か、というのはジブリファンでは知られた問題かもしれない。作中に複数回登場するカレンダー、郵便の消印、サツキとメイの生年と太平洋戦争の期間、宮崎駿監督の「テレビがまだない時代の話なんです。」というコメントなどをもとに推定できるのだが、複数の手がかりが互いに矛盾して確定できないのである。

参考
https://ghibli.jpn.org/trivia/totoro-era/
https://ch.nicovideo.jp/Forlost/blomaga/ar594641

これと全く同じ構造がハルヒとクイーンでも見られる。
ハルヒシリーズに関しては、『涼宮ハルヒの聖時巡礼 涼宮ハルヒシリーズの年代考察』(著:ふぃろ、2019年)に詳しいが、主人公が1999年に幼少期を過ごしていること、『憂鬱』での高校1年の5月の記述、『消失』での12月の記述、『陰謀』での2月の記述を手がかりに曜日と年号を推定はできるものの、それぞれが矛盾した結果を導き出す。特に『憂鬱』においては、5月の連休明けが水曜日という記述から1998年と2008年が候補に挙がるが、1998年をとれば、幼少期の描写が矛盾し、2008年をとれば、刊行年が2003年であるという事実に突き当たる。一冊の物語の中に難題が含まれているのだ。

クイーンに関しても、状況は似ている。国名シリーズ第1作にしてクイーンのデビュー作である『ローマ帽子の謎』では、作中年代は192X年として表記され、当時の事件を1929年から振り返って小説化するという形式をとっている。1920年代のどこかが事件発生年の候補となるはずなのだが、日付と曜日の関係、オニールの戯曲の発表年と照らし合わせても整合性をとることができない。

いずれの作品にも共通していえることだが、おそらくこの年代の不定性は、あえてやっていることなのではないかという気がする。おおよその時代背景は伝えつつも、特定の年号には収束しないようにすることで、世界観を維持しながらも現実世界との強固すぎる結びつきを回避してフィクション性を担保しようとする狙いがあるのではないかと思われる。

この現実と虚構の微妙な距離感は後述するキャラクターの匿名性という点でもよくあらわされている。

登場人物の匿名性

『ハルヒ』に登場するキャラクターのうち普通の人間でない人物にはフルネームが与えられているというのが例外もありながらも通説とされているが、周辺の議論を深掘りしたのが『涼宮ハルヒの匿名性 ~キョンの名前はなぜ明かされないのか?』(著:いしじまえいわ、『SOS団東大支部活動報告その7』収録、2018年)であった(『北高生ロストドキュメント』、2019年にも再録)。

この論考では、『ハルヒシリーズ』においてフルネームが判明しているキャラクターたち、すなわちハルヒを取り巻く普通の人間でないキャラクターたちには、逆説的に偽名を使う動機があり、したがって、主人公を含むほぼすべての登場人物が匿名の存在であることを指摘している。

翻って、クイーンの作品では、キャラクターの匿名性が第一作のまえがきにおいて宣言されている。『ローマ帽子の謎』の原稿を受け取ったJ・J・マックの名で以下のように語られている。

物語に出てくる友人たちも重要な登場人物もすべて仮名にすること、本名は一般読者に永遠に明かさないことを固く誓わされ、守れなければ即座に合意を反故にするという条件を呑まされた。
したがって、“リチャード・クイーン”も“エラリー・クイーン”も、このふたりの紳士の本名ではない。これらの名前を選んだのはエラリー自身であり、ここで言い添えておくと、読者が文字の並び替えのような見かけ上の手がかりから本名を探り出そうとしても、徒労に終わるように工夫されている。
『ローマ帽子の秘密』(角川文庫)越前敏弥・青木創訳

つまり、実際の事件を元にして書かれた小説ではあるがすべての人物名は偽名であると宣言している。
蛇足にはなるが、「本名を探り出そうとしても、徒労に終わるように工夫されている」というのもおかしな書き方である。シンプルに、本名は割り出せないと書けばいいのに、あたかもダミーの別解が用意されていて読者を袋小路に導く意図があるような書きぶりだ。ちなみに原文でも "his choices were contrived to baffle the reader who might endeavor to ferret the truth from some apparent clue of anagram."と述べられていて、訳者の意訳などではなく、「エラリーは、本名を探ろうとする読者を挫折させるために、仮名という手段を考案した」と書かれているのである。本名を探るという行為がある程度は進められるということを匂わせているようである。クイーン作品の設定では、実在の事件を元に書かれたことになっているので、その世界の住人が当時の新聞や裁判記録に当たれば調べはつきそうなものだが、どうなのだろうか(見かけ上の手がかりには含まないのかもしれない)。
ハルヒシリーズを極端にエラリー作品に重ねすぎるのも無根拠ではあるが、これまでのキョンの本名論争も、もしやと思ったりするのである。

さらなる蛇足にはみ出すと、実は作家エラリークイーンというペンネームすら偽名である。ペンネームだから偽名なのは当然という突っ込みはさておき、エラリークイーンはマンフレッド・リーとフレデリック・ダネイという二人の人物のチームの名前である。この二人はバーナビー・ロスという別名でクイーン作品とベストセラーを競うような作品を並行して出版したり、一方がクイーンとして、他方がバーナビー・ロスとして対面で討論会を開いたり、そもそも、このダネイとリーという名前自体も偽名という入り組んだ事情になっている。

さて、登場人物の匿名性に話を戻そう。
ハルヒとクイーンの両作品とも登場人物の匿名性が認められるわけだがそれぞれの匿名性にどのような意図があるのだろうか。

匿名性を帯びることでハルヒシリーズに浮かび上がる特徴は、前述の「涼宮ハルヒの匿名性」において、以下のように考察されている。

「特殊な背景を持った特定の人物たちの身に起きた特別な出来事」ではなく、「少し視点を変えれば誰の身にでも起こりうる物語」

匿名になることで、より身近な物語として捉えやすいのではないかという分析である。

クイーンの匿名性に関しては、表面的には異なる理由がありそうだ。前書きのJ・J・マックの言葉を鵜呑みにするのであれば、1920年代に実際に発生した事件の周辺人物のプライバシーを保護するためということになるだろう。
もちろん、この事件そのものがフィクションなのだから、プライバシー保護なんて建前にすぎない。真の狙いは、この事件を実在のものと印象づけ、リアリティを補強することにあるのだろう。

これまで述べたことを元にすれば、ハルヒにおいては匿名性を一般化の手段として用いており、クイーンにおいては匿名性を特殊化の一助として用いていると解釈できる。

両作品とも向いている方向が正反対のように思えるが、現実感に立脚する作品であることは指摘しなければならない。
ハルヒにおいては、「現実世界なのに、何か面白いことが起きるという期待」のために、クイーンにおいては、「現実世界だから、論理的に説明できることが起きるという期待」のために、現実であることを読者に納得させる必要があるだろう。
ここまで述べてきた匿名性は元の狙いこそ違うものの、おそらくはこの現実感を醸し出す香り付けとしての機能は共通しているのではないだろうか。

作品のリアリティを強めるために、匿名の登場人物というテクニックが二作品で用いられていることを述べてきたが、現実感を担保するより重要な枠組みが、この二作品には共通していると考えられる。それは、語り手による経験談としてこれらの物語が記されているということである。

クイーンの匿名性は、その傍証となる。クイーン作品は3人称の小説なのだが、神の視点で書かれた物語ではなく主人公が過去の体験に基づいて執筆した回顧録としてみなすことができる。次項で詳しく説明したい。

主人公による回顧録 

『挑戦』冒頭のミステリ談義シーンでTはこんなことをいう。

一人称と三人称は究極的には同じものだ。一人称はキャラクター視点の叙述形式だが、三人称は作者視点の一人称形式だ。主語を省いているだけである。

これをわかりやすく示しているのがハルヒとクイーンの対比だろう。
ハルヒは主人公キョンによる一人称形式であり、クイーンは主人公クイーンを一登場人物とする三人称形式になっている。

クイーンが三人称なのに回顧録だといえるのは、前書きにあるとおり、この小説はエラリーが実際に解決した事件を(少々の脚色を交えて)小説化したものだからだ。

一人称の過去形を主体に叙述していること、主人公のモノローグが頻繁に用いられることを考えると、ハルヒの物語も回顧録であるという結論が自然に導き出せるだろう。
細かいことを考えていくと、主人公のモノローグは心の声ではなくて発声していることがほとんどなので、本人の回顧録である保証はないという問題もあるし、主人公の視点が過去にいくのみならず、未来と思われる地点へ移動するのを回顧録と呼ぶべきか(主体的時間の流れとしては過去だから許容されるだろう)という問題もあるし、あるいはスピンオフ作品『長門有希ちゃんの消失』の脚本の待田堂子氏による設定(アニメ16話、スタッフコメンタリー)によれば、長門有希ちゃんが小説『涼宮ハルヒの憂鬱』を執筆したことになり、誰の回顧録なのかという問題も生じる。このように議論の余地はあるが、いずれにせよ、小説『涼宮ハルヒの憂鬱』は何者かの経験に基づいて何者かによって執筆されたものと解釈していいはずだ。

以下に『ハルヒ』と『クイーン』の2作品の構造について模式図を示してみた。

スライド6

スライド4

図では、代表的な「介入」として、介入の例(執筆、設定、脚色)と矢印を示している。
我々が読んでいる小説は、作家によって執筆されたものであると同時に、作中の何者かによって脚色されている可能性があるということに注目していただきたい(正確に言えば語り手が出来事の経験を脚色したと解釈できるように作家が書いているということになる)。これまで述べてきた年代の不定性や作中人物の匿名性も語り手が回顧録を公開するために脚色したものだと解釈できるわけだ。

さて、ここからが本題である
『挑戦』において、古泉は「『読者への挑戦』を含むミステリには、作者と同名の登場人物がいることが望ましい。挑戦は、その名においておこなわれるべきです」と述べている。
小説の途中で『読者への挑戦』を挟むべき適切なタイミングを知っているのは物語の作者でしかあり得ない。結果的に『読者への挑戦』を挿入するという物語への介入は、読者と作中人物のコミュニケーションに突然作者が割り込んでくるような違和感をもたらすことになる。

作者の介入への違和感というのは後期クイーン問題から派生する問題の一つであるが、解決する手段として2つのアプローチが『挑戦』で語られている。1つめのアプローチが、上述の古泉の台詞だ。他人としての作者による介入ではなく、作者と同一人物である作中人物自身の脚色によるものだと解釈させることで違和感を軽減している。本格ミステリで言えば、上図のクイーンや『挑戦』で紹介されている法月倫太郎や有栖川有栖などが挙げられるだろう。
2つめのアプローチは、作中人物が自身と周囲の世界が書かれたものであることに自覚的であるように開き直らせるという手法である。作者が介入する違和感があることは承知で、それも演出の一つとして舞台装置に取り込んでしまうということだ。この具体例についても『挑戦』p149~150あたりで語られている。

『ハルヒ』はどのような手法が取り入れられているだろうか。基本的には1つめのアプローチ、すなわち作者による介入を登場人物に責任転嫁させるという方法をこれまでとっていたのではないかと思われる。
作者が書いている小説の地の文を匿名の主人公のモノローグとして語らせることで、隠れ蓑をまとっているように見える。

しかし最新作『挑戦』では、ハイブリッド的な解決をしているようだ。p231~232にあるように、作中人物の台詞の中に『直観』のページ数を挿入して引用箇所を明示したり、謎の解決の手前で古泉に「これがミステリ小説ならば、ここらで『読者への挑戦』が挿入されるタイミングですが……」などと宣わせたりしている。『挑戦』が異色の実験作であるというのがうかがえるところだろう。

作家の介入をどのように許すべきかという問題は、本格ミステリに特権的に発生するものではない。SFやファンタジーなどジャンルが違えど、アニメやマンガなど媒体が違えど、創作物である限り、必ず作者が存在し、必ずこの問題はつきまとう。
『クイーン』や『ハルヒ』でみられる、小説を作中人物の回顧録とみなせる構造はこのような要請から生まれたのかもしれない。

作者が物語世界における神であることを暗黙的に受け入れている読者がほとんどなので、この問題についてあえて解決手段を提供しない創作物のほうが多数派なのではないかと思われる。
とはいえ、作者の全能性に陰りが見えた瞬間に多くの読者は違和感から逃れることはできないのではないだろうか。あえて『ハルヒ』にこの構造をもうけた理由のヒントがこのあたりに隠れているのだと筆者は考えている。

作家の不可能性と独立性

作者は物語世界を自在に作り上げる能力を持っている。物語の展開やその時々の登場人物の感情、天気などの自然現象も思いのまま記述することができる。とはいえ、作者が物語に介入しすぎると、読者によって批判にさらされることになる。物語は読者によって監視されているのだ。作者は、物語がどのように読者に受容されるかを想定しながら話を紡ぎ出していかなければならない。

作者の自由を制約する要因は他にもある。物語の決定権を持つのは作者一人ではないからだ。わかりやすい例でいえば、出版社の編集者が挙げられるだろう。著者と編集担当がアイデアを出し合いながら内容を固めていくという例は少なくないはずだ。現に、『直観』のあとがきにおいても、「『七不思議オーバータイム』は、担当氏の「彼等の通っている高校に七不思議はないのか?」という問いから始まり」、担当とのやりとりが作品誕生のきっかけになったと語られている。当然作者の意向が優先されるので、これを制約と呼ぶのは言葉選びとして疑問が残るが、ある程度の影響は受けていると言ってよいだろう。

物語の有り様は作者の一存では定まらないわけだが、この観点でハルヒとクイーンにはもう一つ共通点がある。
どちらの作品も、デビュー作であり、執筆を開始した時点ではシリーズ化されることを前提にしていなかった。

特にクイーンの国名シリーズは第一作『ローマ帽子の秘密』での設定では、事件を解決してしばらくしたあとの1929年時点で親子そろってイタリアに移住して隠遁していたはずが、後期の作品においては1930年以降の事件にも関わっているという露骨な路線変更がとられている。

ハルヒシリーズでは、既存の設定を放棄するような事例は見られないものの、シリーズを重ねるごとに新キャラが登場したり、物語の時系列が複雑化したりして、第一巻の内容からどんどん発展している。

どちらの作品も、デビュー作として、単体で完成度は高く、発表当時に高く評価されている。評価が高かったからこそ、世間や出版社からの続編への期待は大きく、それに応える形でシリーズが長く続いていった/続いている。

世間や出版社などの作品の読者は、作品から影響を受ける側と考えられがちだが、批評や編集といったプロセスを経ることで、作品の制作にも何らかの影響を及ぼすことになる。単発ものでは目立たないが、シリーズものになると無視できないことが多いのではないだろうか。

また、作品が読者の元に届いて解釈されることでようやく価値が生まれるという創作物の宿命がある。作品と作者だけでなく、読者による受容があってこそ創作は成立する。
仮に大天才の作家がいたとして、100年後の未来人でないと理解できない大作を産み出しても、現代の読者に理解されなければ作品の価値は認められないのだ(偶然によって後世まで残されて後々再評価されるパターンも皆無ではないが)。

以上のことを踏まえて、前述の作品構造の模式図にもう一つ外側の階層を追加してみよう。

スライド3

スライド5

いよいよ構造は複雑な見た目になってしまった。作品は作者によって産み出されるものだが、その作者もより外部の社会的存在の支配下に置かれている。この図では外側のレイヤーが内側のレイヤーに対してどのような介入があるかを例示しているので、作品から読者に対する影響というのも当然存在するが、あえて図示していない。

読者は作品世界にのめり込んでいるはずなのに、時折、作者や外部の存在がちらついて集中を乱されることになりかねない。ハルヒシリーズやクイーン作品に限らずどのような作品もこのような構造を持っているはずだ。
これまで述べてきたような事柄だけでは、ハルヒシリーズの構造は、クイーン作品に影響を受けたせいだとは断言はできないだろう。ただ影響が皆無とも言い切れない。直接的にクイーンを参考にしたわけではなくても、本格ミステリ好きの谷川先生が、後期クイーン問題に関しての思索を深めた結果としてこのような構造に行き着いた可能性もあるかもしれない。

物語世界の神

作家は物語に対して万能の権力を持っていて、その外側の出版社などの存在は秘匿されがちである。多くの小説は、作者が編集とプロットを練り上げたり、批評家の声に耳を傾けたりすることによって外部の存在からよい影響も受けることはあるが、作品世界に没頭したい読者に配慮して影を薄くしているものと想像する。
ごくまれに出版社と作者がもめたという噂話が流れてきたという作品がでたりすると、そのたびに幻滅しただの夢が壊れただの、批判的な炎上が起こることがある。このようなネガティブ面が悪目立ちするリスクに備える狙いがあって表舞台を避けているのかもしれない。

結果として、小説という媒体においては、作者が物語世界の神として君臨することに成功している。読者は基本的には物語世界に没頭して、たまに作者の気配を感じることがあっても、神様だから仕方がないと割り切ることができる。

しかし、本当にこれでいいのだろうか?
物語世界は物語世界で完結せず、外側のレイヤーから神様として作者が介入している。作者による介入はクイーン作品では、作者と語り手が同一視されることで解決が図られていた。
その作者も場合によっては外部からなんらかの制約を受けている。この構造を隠すように努力しても、何らかのきっかけで露見した途端、読者の充実感を奪ってしまうリスクがある。
このリスクを根本的に解決する方法はないのだろうか。

作者がどのように物語に関わるべきかという思索を深めていくとどうなるだろうか。
『挑戦』において、『大癋見警部の事件簿』(深水 黎一郎著)というメタミステリを引用したり、『絶望系』という形而上学的会話劇の絶えない異色の小説を執筆した谷川先生は、作品がどのような芸術的手法を成し遂げたかという成功価値に重きを置いているようにみえる。したがって、リスクやメリット云々以前に、この構造を隠す実験的手法があれば試してみたくなったのかもしれない。

解決する手段として狙ったのかどうか、知るよしもないが、結果的に、ハルヒはこのもくろみに成功しているといえるだろう。
小説の中に神を配置する。神は当然、作品世界を思うがままにできる。作品世界の神に出会った読者は、その神が作品世界を飛び出して、外側の世界にも介入しうるのではないかと解釈することになる。

物語階層模式図

我々のいる世界すらも、ハルヒが願った結果なのではないかという解釈は、最新昨の『挑戦』においても古泉の口から語られており、答え合わせすることができる。

「仮に涼宮さんが犯人当て推理小説の探偵役だとしましょう。そして彼女は、物語構造の内部にいながら物語を恣意的に書き換えてしまう能力がある。するとどうなるか。ストーリーの展開は作者でも読者でもなく、一人の登場人物の無意識と直感により、変容してしまうのです」
読むたびに結末や犯人が変化する場合があるということか。お得じゃないか。一冊の本で何度でも楽しめる。
「おそらく、そうはなりません」
断言できるのはなぜだ。
「なぜなら、涼宮さんの改編能力は物語外部の世界にも影響を与えるだろうからです。仮にその本を読んで一度目と二度目で犯人が違っていたとしましょう。しかし、その読者は違っていたことに気がつかない。二度目の真相が現実化すれば、一度目に違った真相を読んだ、という記憶も改編されるんです。同じ本を再読し、そして同じ内容だったと思うことしかできないでしょう」(『涼宮ハルヒの直観』収録『鶴屋さんの挑戦』p.404)

起こりうる現象として古泉が提唱しているのは、作品世界への介入と、それに呼応した読者の意識への介入である。読者の意識への介入が認められるならば、読者のいる世界への介入も可能だろうと想像できる。まさに、上述のように、我々の世界もハルヒの影響を免れないといっている。

この枠組みがあることで、『ハルヒ』シリーズは一種の芸術的手法を打ち立てたといえる。テレビアニメ化によって、作品世界の創造に関わる人物が作者個人からアニメ制作委員会へと大きく増加したときも、作品の超監督として涼宮ハルヒを据えるという一貫した方針があったおかげで、「『ハレ晴レユカイ』が大ブームになったのは、涼宮ハルヒが世界を大いに盛り上げたいと望んだから」といった解釈をして楽しむことができた。作中でのハルヒの「そのうち教育委員会に掛け合ってすべての公立校にSOS団支部を作るつもりよ。」(『暴走』より「射手座の日」)での台詞に触発されてかはわからないが、全国の高校や大学にSOS団支部が同時多発的に発生することもあった(余談だが意外なことにSOS団支部という概念はシリーズ5巻が初出である)。

クイーンの第一作、『ローマ帽子の謎』の発明は、「読者への挑戦状」であった。それ以前にも読者への挑戦状という概念は存在していたが、作者から読者への挑戦状として挿入されるものであり、作家が割って入ってくる違和感を解消するための階層構造を導入したことは画期的だったはずだ。

『涼宮ハルヒの憂鬱』の発明は、物語の全権を作家の手から作中の神に委譲することにあったのではないだろうか。この実験は成功したと言っていいだろう。ハルヒが世界を大いに盛り上げたいと願ったからこそ、この作品は受容され社会的現象を巻き起こした、という解釈を生み出したのだから。

さいごに

せっかくなので、これからクイーンを読む方のために、簡単な指南を残しておきたい。

まずはクイーンの国名シリーズを読むのがいいのではないかと思う。国名シリーズは、角川文庫版と創元推理文庫版が存在している。今回の記事では角川文庫版を底本としている。角川文庫版はクイーン研究の第一人者である飯城勇三氏の解説が充実していておすすめである。(創元推理文庫版はエラリーの丁寧口調が古泉を連想させるので古泉が好きな人は創元推理文庫版もいいかもしれない)
角川文庫版は『~の秘密』、創元推理文庫版は『~の謎』というタイトルになっているので探すときは気をつけられたし。たくさんの『~の秘密/謎』があって、読む順番が分からないと不安になるかもしれないが、『涼宮ハルヒの~』という作品を読んできた方には難しくないだろう。グーグル検索すればよいのである。
国名シリーズは作品数も多いので、順番に読んでいくのは大変だろう。名作と呼ばれるものだけをかいつまんで読んでも楽しめるのではないかと思う。三冊選べと言われたら、『ギリシャ棺』、『エジプト十字架』、『シャム双子』だろうか。偶然にも『直観』での長門とTと古泉の好みと合致している。

『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』『レーン最後の事件』も角川文庫と創元推理文庫からでている。『災厄の町』『フォックス家の殺人』『十日間の不思議』『九尾の猫』については、早川ミステリ文庫からでている。

指南といって軽くまとめてみたが、クイーンの作品はやっぱり多い。
そのうちハルヒも巻数を重ねて後期ハルヒ問題なんて命題が立ち上がったりするんだろうかと妄想してみる。

ハルヒファンとクイーンファンに幸あれ。

SOS団東大支部 (藤崎はると)
本記事は2021年10月発行『STARその10』に掲載予定です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?