レ・ディスク・デュ・クレプスキュール:健全な折衷主義と危うい海外取引
原文:
"Les Disques Du Crépuscule | healthy eclecticism and dodgy foreign deals"
by Frank Brinkhuis
https://web.archive.org/web/20230130231802/http://home.planet.nl/~frankbri/crestory.html
レ・ディスク・デュ・クレプスキュール:健全な折衷主義と危うい海外取引
フランク・ブリンクホイス(Frank Brinkhuis) © 1990/1997
レ・ディスク・デュ・クレプスキュール(Les Disques Du Crépuscule)は、10年半以上にわたって、大陸で最も優れたレコード・レーベルのひとつであることを証明し、世界的に高い評価を受けてきた。1980年に設立されたブリュッセルを拠点とするレーベルは、レコード、カセット、CDで400タイトル以上をリリースし、書籍出版、ビデオ制作、ファッションの分野でも運を試した。ポップスからジャズ、クラシックから実験音楽まで、実に多彩な音楽性。誇大広告のないアーティストの扱いやプレゼンテーション、グラフィック・デザインへの細心の配慮。これらによってクレプスキュールは、70年代後半から80年代初頭にかけて設立されたインディペンデント・レコード・レーベルの中でも、特別な存在となった。
プラン・Kと『プレイン・ソレイユ』
クレプスキュールのこれまでの歴史を簡単に振り返ることは、非常に絶望的な作業である。もちろん、ウィム・メルテン、イザベル・アンテナ、ポール・ヘイグ、タキシードムーン、キャバレー・ヴォルテール、アンナ・ドミノ、ブレイン・L・レイニンガーといった「ビッグネーム」がいる。しかし、それと同じくらい重要なのは、1枚か2枚しかレコードを作らず、永遠に姿を消したり、運が良ければ何らかのコンピレーションや再発盤で再び姿を現したりする数多くのアーティストたちである。彼らにはそれぞれの物語があり、いつかどこかで語られるべきものだ。この記事では、主なリリースと出来事に限定し、あまり詳細には触れないことにする。
クレプスキュールの正式な誕生は、1980年8月にリリースされたア・サートゥン・レイシオの「Shack Up」の7インチにさかのぼり、それはファクトリー・ベネルクス/レ・ディスク・デュ・クレプスキュールという二重のレーベルの身元と、FAC BN 1-004という二重のカタログ番号を持っていた。この7インチに続き、10月にはドゥルッティ・コラムの「Lips That Would Kiss」の12インチ、11月にはセクション25の「Charnel Ground」の7インチがリリースされた。クレプスキュールは、これらのレコードが二重のレーベルの身元を持つ理由は不明だと主張しているが、推測するのはさほど難しくない。
1979年10月、ジャーナリストのミシェル・デュヴァル(Michel Duval)とアニック・オノレ(Annik Honoré)は、ブリュッセルのプラン・Kでライブやイベントのオーガナイズを始めた。1973年にオープンしたプラン・Kは、5階建ての製糖工場の廃屋を改装してアートセンターにしたもので、マンチェスター通り21番地にあった。ジョイ・ディヴィジョン(初めて海外でギグを行った)、キャバレー・ヴォルテール、ウィリアム・バロウズは、10月16日に行われたこのプロモーター2人組にとって最初の晩に出演した。その後、ポスト・パンク時代の注目の重要バンドが数多く出演し、そのほとんどがイギリス人だった。どういうわけか、特にファクトリーのアーティストたちはブリュッセルでの滞在を楽しんだ。(棚上げされていた)ファクトリーの音源をリリースする、というデュヴァルのアイデアは、ファクトリーのボス、トニー・ウィルソンに採用され、1980年春、ファクトリー・ベネルクスが誕生した。しかし、デュヴァルとオノレは他のアーティストやバンドの音源のリリースにも興味を持っていたため、自分たち自身のレーベル、レ・ディスク・デュ・クレプスキュールを1980年4月に設立した。
1980年6月に発行されたファンジン『プレイン・ソレイユ(Plein Soleil)』(※1)は、クレプスキュールの最初の活動としてあげられる。6月27日、彼らはプラン・Kで「Grande Nuit De Cloture」と題したジャン・コクトーへの野心的なオマージュを、豪華なマルチメディア・イベントという形で上演した。ブノワ・エンヌベール(Benoit Hennebert)がデザインした精巧なポスターには、ビル・ネルソンとザ・モノクローム・セットによるパフォーマンス、エリック・サティのリサイタル、ファクトリーの展示とビデオクリップ、そして奇妙な「匂いの展示」が約束されていた。ザ・モノクローム・セットはショーから撤退し、代わりにリチャード・ストレンジが出演した。このイベントの模様は、『NME』(7月12日付)で長文のレポートが掲載された。
このレーベルの初期の痕跡は、ベルギーのドゥブル・ドーズ(Double Dose)レーベルからリリースされた2枚の7インチにも見られる。そのうちの1枚、サイレント・タイプズの「War Economy」は1980年7月にリリースされた。ジャケットの裏には「ドゥブル・ドーズはレ・ディスク・デュ・クレプスキュールの協力に感謝します」と書かれている。2つ目の7インチは、もともとクレプスキュールからTWI 008としてリリースされる予定だったマーク・ビアの「Realisations」で、10月にリリースされた。後にクレプスキュールのハウス・デザイナーとなるエンヌベールによるハンサムなジャケットをまとっている。エンヌベールはそれ以前にも、フローラル・レーベルからイーノの2曲からなるブートレグ7インチを個人的にプレスしていた。これは数枚しかプレスされなかった。
ブリュッセルより愛をこめて
クレプスキュール初の本格的な製品であり、今や伝説となっているカセット・コンピレーション『ブリュッセルより愛をこめて(From Brussels With Love)』(TWI 007、イアン・フレミング/ジェームズ・ボンドにちなむ)は、1980年7月から10月にかけて制作され、11月に発売された。そのリリースはファクトリー・ベネルクスとクレプスキュールの別れを意味したが、両レーベルは同じオフィスで活動を続けていた。
1980年の野放図なインディペンデント・ミュージックの世界でさえ、『ブリュッセルより愛をこめて』は、16ページの魅力的なブックレットを含む透明な塩ビ製パウチに梱包された、異色の存在だった。トーマス・ドルビー、リチャード・ジョブソン、ギャヴィン・ブライヤーズ、マイケル・ナイマン、ギルバート&ルイス、デア・プラン、ヴィニ・ライリー、ブライアン・イーノなど、有名なアーティストとそうでもないアーティストの作品が奇妙に混在しており、単なる「オーラル・マガジン」であるにもかかわらず、パンクがそれ以前にやった以上に、ロックンロールの伝統を無意識のうちに破裂させていた。すなわち、『NME』のポール・モーリーはこう書いた。
この年のレーベルの唯一の活動は、TWI 007のリリースの前、10月31日にブリュッセル自由大学で開催されたファクトリー・ナイトのポスターで、出演はア・サートゥン・レイシオ、セクション25、デュルッティ・コラム、そしてマンチェスターのレーベルにシングルを録音したばかりのベルギーのバンド、ザ・ネームズだった。ブームタウン・ラッツのLP『The Fine Art Of Surfacing』の表ジャケットのデザインにインスパイアされたクロード・スタッサール(Claude Stassart)のデザインによるポスターには、ファクトリーのスタイルに忠実なことに、TWI 011という独自のカタログ番号が付いていた。
クラシック・コンピレーション
1981年1月にリリースされたクレプスキュール初の正規のレコードは「Mozart」で、この7インチ(1980年にピアノ・レコーズから「In Re Don Giovanni」としてリリースされていた)は、すでに『ブリュッセルより愛をこめて』に参加していたものの当時まだ無名だったマイケル・ナイマンの小品3曲を収録している。シングルとしては奇妙な選曲だったが、今では「Mozart」は人気の高いレコードとなっている。
1981年のうちにクレプスキュールは、有名なアーティストやバンド(ジョセフ・K、キャバレー・ヴォルテール、ビル・ネルソン)とその他(マリーン、レペティション、アイク・ヤード)のレコードをリリースし、独自のアイデンティティを確立し始めた。
7月13日、レペティション、マリーン、エリック・ランダム、リチャード・ジョブソン&スワンプ・チルドレンは、ロンドンのヘブンで開催された「クレプスキュール・ナイト」に出演した。このイベントは『NME』で取り上げられ、カセット『Rendez-Vous Au Paradis』が予告されたが発売されなかった。同日のヘブンでのソフト・ヴァーディクトのライヴはキャンセルされた。イギリスのプレスリリースでは、6人編成で、マイケル・ナイマンがキーボードを担当すると発表されていた……。
1981年には、クレプスキュールの出版社ブリュイ・エソンシエル(Bruits Essentiels)が設立され、優れた独創的なグラフィックデザインの最初のサンプルが発表され、レーベルの名声に大きく貢献した。特に、クレプスキュール社の役員でもあった前述のブノワ・エンヌベールの作品は魅力的であった。一方、オノレはクレプスキュールを去った。
さらに、クレプスキュールが非常に奇妙な番号付けシステムを使っていることが明らかになった。カタログ番号はわざとランダムに飛ばされ、存在しないかもしれない番号を探そうとするファンを混乱させた! そして、このレーベルのもうひとつの特徴である、プロジェクトの中止と録音の棚上げが早くから起こっていた。ブリュッセルのバンド、マリーンは、素晴らしいデビューEP「Life In Reverse」を制作していたが、すでにレコーディングされていたセカンド・シングル「Stripped Portrait」とデビュー・アルバム『Une Soiree Avec』は、ラインアップの変更のためにキャンセルされた(離反したメンバーはヴァージンに移籍してアレ・アレ(Allez Allez)になった)。
11月には2枚組の傑作コンピレーション・アルバム『The Fruit Of The Original Sin』を発表、エンヌベールによる素晴らしいジャケットに収められていた。12月初旬には、別のコンピレーション・アルバムがリリースされた。『Chantons Noël - Ghosts Of Christmas Past』である。これはその後数年にわたって5枚出たクリスマス・アルバムの最初の1枚で、ニュー・オーダーの変名と噂されたスウィンギング・ビルディングスの曲も収録されている……。
さらに1981年の2つのリリースは特筆に値する。1つ目は、当時スキッズのボーカルだったリチャード・ジョブソンの詩集『A Man For All Seasons』。もう1つは、マリーンのライヴ音源2曲を収録したフレキシディスクだ。このフレキシディスクはオランダの雑誌『Vinyl』に付属していた。
豊かな収穫
クレプスキュールの1982年の収穫は、バラエティとクオリティの点で、すべての年の中でも最も豊かなもののひとつである。シック・ピジョン、ポール・ヘイグ、タキシードムーン、ザ・ネームズ、ソフト・ヴァーディクト、アンテナ(この名前はクラフトワークの楽曲「Antenna」から取られたと思われる)などは、いずれも記憶に残るレコードである。ほかにもチェックすべきレアものはあって、ソフト・ヴァーディクトの『For Amusement Only』カセットとありえないほどレアなビデオ、そしてもう1本のカセット『Some Of The Interesting Things You'll See On A Long Distance Flight』などだ。後者には、1982年2月にオランダ、ベルギー、フランスを経てロンドンで終わったクレプスキュールの「Dialogue North-South」ツアーのレポートが収録されており、ザ・ネームズ、ドゥルッティ・コラム、リチャード・ジョブソン、ポール・ヘイグ(ジョゼフ・Kの解散から間もない頃)、タキシードムーンらが参加した。1991年には、500枚限定で、オリジナルのツアー・ブックレットの再版を含む拡大編集版がCD化された。
1982年10月、女優の故ジーン・セバーグに捧げられ、アンテナ、ザ・ペイル・ファウンテンズ、アイソレーション・ウォード、キャバレー・ヴォルテール、23スキドゥーらとベルギーを回った2度目のクレプスキュール・パッケージ・ツアー「Move Back - Bite Harder」(フランスとイタリアでの追加公演は中止)のレポートもカセットテープでリリースされる予定だったが、『To Gain The Affection Of Miss Creezy Only For One Short Minute Would Benefit Me No End』(※2)という謎めいたタイトルが付けられ、発行されることはなかった。タキシードムーンとキャバレー・ヴォルテールによる即興演奏は、1990年に限定発売されたウィンストン・トンのCD『Like The Others』に収録されている。さらに1曲、ペイル・ファウンテンズが演奏した「Walk On By」は、1998年にマリーナからリリースされたバンドの回顧コンピレーション・アルバム『Longshot For Your Love』に隠しトラックとして収録されているが、残りのテープはアーカイブに残されたままだ。
ツアー関連のリリースで実現しなかったのは、「Miss Creezy」のカセットテープだけではない。UKのインディー・スター、フェルトは、「Move Back - Bite Harder」出演のお披露目として、9月にクレプスキュールから7インチ「Trails Of Colour Dissolve」をリリースする予定だった。しかし、バンドがツアーを辞退したため、シングルは廃盤となり、チェリー・レッドから「My Face Is On Fire」のB面としてリリースされた。同じくチェリー・レッドのアーティスト、アイレス・イン・ギャザは、クレプスキュールで「Second Nature」の7インチが予定されていて、それには「Still Hours Flickering」ともう1曲がカップリングされていたが、同様に廃棄された。
クレプスキュールの最初で唯一のビデオ・コンピレーション『Umbrella's In The Sun』が7月にリリースされた。このビデオには、レーベルの初期のプロモビデオのほとんどが収録されているだけでなく、一連のユーモラスな「合間の」ビデオも含まれており、様々な反応を引き起こして、多くの人が悪趣味だと考えた。それらはツボをはずしたのだろう。
12月には新しいクリスマス・アルバムが登場した。ジャン・フランソワ・オクターヴ(Jean François Octave)による豪華なゴールドのジャケットに収められた『Ghosts Of Christmas Past, Remake』だ。LP盤には81年のクリスマス・アルバムから半分のトラックと7曲の新曲が収録され、カセット版にはボーナス・トラックとして「Monks In The Snow」が収録されている。
ベルギー・コネクション――海外事業
ブリュッセルは国際的な都市であり、クレプスキュールはすぐに海外にも触手を伸ばした。1982年には3つ以上の海外事業が開始された。クレプスキュール・セクション・フランセーズ、オペレーション・トワイライト(UK)、そしてクレプスキュール・アメリカである。いずれも短命に終わり、ファクトリーUSの最高責任者マイケル・シャンバーグ(Michael Schamberg)が運営するアメリカ・セクションは、たった1枚のレコードを出しただけだった。ポール・ヘイグの「Running Away」12インチである(アメリカで録音されたザ・フォールのライヴLPは、少なくともクレプスキュール・アメリカからは発売されなかった)。
クレプスキュールのフランスとのつながりで言えば、注目すべきユニークなレコードがいくつかある。その筆頭がアイソレーション・ウォードの「Lamina Christus」の7インチで、クレプスキュールのカタログ番号(TWI 072)が割り当てられているが、このレコードはセルジュ・マルシヨー(Serge Marcillaud)がラディカル・レコードを通じて管理していたクレプスキュールのフランス支社からリリースされた。ラディカル・レコードは、コンピレーションLP『A Day In October』やマリーン「Rive Gauche」の12インチなど、クレプスキュールのフランス盤のみを数枚リリースしている。
オペレーション・トワイライトとブリュッセルの本部とのつながりは、ラフ・トレードとロンドンのパトリック・ムーアを経由していたが、トワイライトは確かにクレプスキュールの活動だった。レーベルの最初のリリースは、当時ブリュッセルに居を構えたばかりのタキシードムーンによる『Divine』だった。グレタ・ガルボの映画を題材にしたモーリス・ベジャールによるバレエのためのスコアだった。ジェイムズ・ナイス(James Neiss)は、スタンパ・オルタナティヴァから出版されたタキシードムーンに関する本の中で、こう書いている。「必要上、かなり急いだ作業で、楽譜は既存のテープを広範囲にわたって流用した。目立つ曲である「Ninotchka」は、ラジオ・モスクワで聴いたポルカをそのまま引用したものだった」。そして実際、このLPは、ラルフ・レコードからリリースされた彼らの輝かしい最初の2枚のLP『Half-Mute』と『Desire』の足元にも及ばないものだった。
『Divine』に続いて、ポール・ヘイグ、アンテナ、ザ・ペイル・ファウンテンズ、ミカドの7インチがリリースされたが、これらはすべてクレプスキュールから12インチ・フォーマットでリリースされ、アートワークとボーナス・トラックが異なっていた。バッジセットと別のバッジを除けば、オペレーション・トワイライトはベルギー盤のないレコードを3枚出している。ロスト・ジョッキーの「Professor Slack」10インチ、後のプロパガンダの中心人物ラルフ・ドーパーの12インチEP「Eraserhead」、フレンチ・インプレッショニスツのクリスマス・シングル「Santa Baby」である。ポール・ヘイグの「Justice」とエイプリル・シャワーズの「City Sleeps」という2枚の7インチはリリースされなかった。しかし、1枚目のテストプレスは存在する。
ヴァージンとの契約により、ペイル・ファウンテンズのセカンド・シングル「Thank You」は破棄され(後にヴァージンからリリースされた)、セルジオ・メンデス、サイモン&ガーファンクル、ラヴ、バート・バカラックのカヴァーを収録した彼らのクレプスキュールからのデビューLPも破棄された。
さらにトワイライトは、ハワード・デヴォートの歌詞集『Heart Beats Up Love』、さまざまなアーティストの2枚組12インチ「Antelopes & Alligators」、ZTT以前のプロパガンダの12インチ「Diziplin」、カセット『Piano Solos』、ジャザティアーズのLP(後にラフ・トレードからリリースされた)、ボージー・ボージーの12インチをリリースする予定だったが、1983年4月に活動を終了したため、実現することはなかった。トワイライトのカタログは、販促用に使われた1950年代の色違いのおもちゃのロボット4体セットが含まれていることだけでも、この界隈で最も奇妙なもののひとつであることは間違いない!
クレプスキュール・オ・ジャポン
1983年初頭、新星堂シリウスと提携して設立されたクレプスキュール・オ・ジャポンもまた、クレプスキュールの海外支部である。重要な収入源でもあった、クレプスキュールのこの東京支部の特別商品をすべて調査することは、この記事の範囲を超えるだろう。そこで、オリジナル・カセット版とは全く異なる2枚組LP『ブリュッセルより愛をこめて 1983エディション』を筆頭に、興味深いアルバムをいくつか挙げてみよう。このアルバムと、『クレプスキュールより愛をこめて(Some Of The Interesting Things You'll See On A Long Distance Flight)』、ソフト・ヴァーディクトの『For Amusement Only』の日本限定LP盤は、ヨーロッパにごく少量輸入された。
日本で最も豪華なアルバムは、『クレプスキュール物語(Coincidence Vs. Fate)』である。これも2枚組LPのコンピレーションで、エンヌベールによる壮麗なジャケットに収められている。このセットは、ウィム・メルテンの日本限定12インチ「A Visiting Card」とともに1984年末に発売された。その数カ月後、クレプスキュールの大規模なパッケージ・ツアーが日本で行われると、レーベルは大判の「コーヒー・テーブル」ブック『Coincidence Vs. Crepuscule』をリリースした。そこにはブリュッセルに関するテキスト、アーティストのプロフィール、スティーヴン・モリッシーによるリュダス(Ludus)に関するエッセイ、ウィンストン・トンの詩が掲載されていた。
このレーベルの現在の日本での販売元であるビクター/JVCは、単にライセンス契約を結んでいるだけなので、コレクターズアイテムは少ない。ビクターが発売した特別商品には、『*5 Close Up: My Hand Places A Black & White Photograph Of Your Face On The Table』、『The Entire Population Of China』、イザベル・アンテナの『L'Alphabet Du Plaisir』、クレプスキュールの女性アーティストの楽曲を集めたコンピレーション『Les Voix Du Crepuscule』、アンナ・ドミノのコンピレーション『L'Amour Fou』、そしてイザベル・アンテナのコンピレーション『La Mer De L'Ete』などがある。すべてCDのみで、固有のジャケットに包まれている。
1983年:アイランドとの契約
しかし、ここで1983年に話を戻そう。3月、クレプスキュールはアイランド/アリオラとポール・ヘイグとアンテナのイギリス/ベネルクス配給契約を結んだが、最後の最後で無名の第3のアーティストが契約から外れた。この契約の結果、ポール・ヘイグのアルバム『Rhythm Of Life』はニューヨークでレコーディングされ、アンソニー・フィアやバーニー・ウォーレルといった有名なセッション・ミュージシャンが参加し、アレックス・サドキンがプロデュースした。アイランドとクレプスキュールは、このアルバムから3枚ものシングルをリリースした。「Heaven Sent」(ジョセフ・Kの曲のリワーク)、「Never Give Up」、「Justice」である。いずれもチャートでは失敗してしまったが、おそらく『Rhythm Of Life』の大仰なエレクトロ・ダンスが、ジョセフ・Kが好きだった人々にアピールしなかったからだろう。アルバム自体はヨーロッパの全地域で売れたので、アメリカ市場は論理的な次のステップだと思われた。ところがアイランドはアメリカでのリリースを見送った。しかし不思議なことに、『Rhythm Of Life』のほとんどの曲のリミックスを収録したポール・ヘイグのセルフタイトルのミニLPが、翌年、アイランド・レコードの米国分社アンティリーズ(Antilles)から、ベルギーではクレプスキュールを通してリリースされた。この時、発売中止になったのはイギリスでのリリースだった。1990年、クレプスキュールは『Rhythm Of Life』と『New York Remixes』を1枚のCDにまとめてリリースすることをヘイグに提案したが、ヘイグはこのアイデアに拒否反応を示した。
元ヴァージン・レコードのアーティスト、ポスト・ウォー・ヌードス(Post War Nudes)はスリー・イージー・ピーセス(Three Easy Pieces)と改名し、「The Heated Room」と「Sweet Drowning」の2曲をクレプスキュールのために録音したが、予定されていた7インチはリリースされなかった。
1983年にリリースされた作品の中で最も人気が高いのは、間違いなくウィンストン・トンのカセットテープ『Like The Others』(塩化ビニールのケースに収められた歌詞ブックレット付きの限定盤)と、カセットテープ『Chicago 82 - A Dip In The Lake』(1982年のシカゴ・ニュー・ミュージック・フェスティバルに関するウィム・メルテンによるレポート)である。「Chicago 82」は、グレン・ブランカ、ジョン・ケージ、ピーター・ゴードン、メリディス・モンク、ハロルド・バッド、デヴィッド・ヴァン・ティーゲムなどの音楽とインタビューが収録された珠玉の作品だ。
ウィム・メルテンのソフト・ヴァーディクトとの初期作品に興味がある人は、「Close Cover」の7インチを探すべきだ。三重溝になったB面には、他では入手できない3つの小品が収録されている。1991年のCDセット『Sources Of Sleeplessness』には、これらの曲の新しい拡張バージョンが収録されている。
1983年のクリスマス・レコードを制作する栄誉はファクトリー・ベネルクスに譲られ、彼らは悪名高いファクトリー・ベネルクスのグレイテスト・ヒッツLPを作り上げた。
タキシードムーン
クレプスキュールが彼らに借りがあるのと同じくらい、彼らもクレプスキュールにも借りがあるバンドに注目する時が来た。タキシードムーンである。1980年10月、タキシードムーンがオランダ、ドイツ、イギリスを回るツアーの一環として、ブリュッセルのプラン・Kで初のヨーロッパ公演を行ったときから、この物語は始まった(6月に予定されていたジョイ・ディヴィジョンのサポート・ツアーは、当時JD'sはすでに存在していなかったためキャンセルされていた)。
バンドはいたるところで喝采を浴びた。サンフランシスコを離れてヨーロッパに移住する計画はすぐに具体化し、その年の暮れにはメンバー全員がオランダのロッテルダムのアーティスト・コミューンに住むことになった。しかし、1年も経たないうちに退去を余儀なくされ、ブリュッセルに移り住み、プラン・Kに身を寄せた。これが、ブリュッセル全般とクレプスキュールとの長く続く関係の始まりとなった。タキシードムーンがクレプスキュールからリリースしたのはアルバム1枚と12インチ3枚だけだったが、メンバーのうち3人(ブレイン・L・レイニンガー、ウィンストン・トン、スティーヴン・ブラウン)は、このレーベルをさまざまなソロ・プロジェクトやサイド・プロジェクトの出口として利用してきた。
1982年5月にリリースされたタキシードムーンの前述のアルバム『Divine』には「Ninotchka」の12インチが付属しており、6月にリリースされた『Umbrellas In The Sun』のビデオには、タキシードムーンも2曲参加している。同月、ブレイン・レイニンガーがクレプスキュールから初のソロアルバム『Broken Fingers』を発表し、7月にはタキシードムーンの12インチ「Time To Lose」がリリースされた。1982年の残りはツアーとレコーディングに費やされた。
1983年4月にリリースされた「The Cage」の12インチは、クレプスキュールにとって最後のタキシードムーンのレコードとなったが(バンドは後に、同じブリュッセルに拠点を置くクラムド・ディスクと契約を結ぶことになる)、それでもさまざまなメンバーがクレプスキュールのソロ・プロジェクトに取り組む妨げにはならなかった。6月にウィンストン・トンのカセット・パッケージ『Like The Others』が登場したのに続き、10月にはブレイン・レイニンガーの新作12インチ「Magnetic Life」がリリースされた。この12インチがリリースされる頃には、レイニンガーはタキシードムーンを脱退し、ソロ・キャリアに乗り出そうとしていた。彼の2枚目の、そしておそらく最高のソロ・アルバム『Night Air』は1984年5月にリリースされ、アルバムからのトラックである「Mystery And Confusion」のニュー・ヴァージョンが6月に7インチでリリースされた。このアルバムは、クレプスキュールとディストリビューターのヒマラヤ(Himalaya)が設立したレーベル、アナザー・サイド(Another Side)からリリースされたが、翌年クレプスキュールから再発された。4月にアナザー・サイドからリリースされたスティーヴン・ブラウンのファースト・ソロ・アルバムも同様の運命をたどった。
その頃ウィンストン・トンは、ベルギー人シンガーのニキ・モノ(Niki Mono)とレコーディング・プロジェクトを始めていた。その結果、8月に「Theoretical China」の12インチがリリースされ、これは印象的なB面曲「The Hunger」で最もよく記憶されている。トンの2枚目の12インチ「Reports From The Heart」が登場するまでは、ほぼ1年かかった。これは1985年10月にリリースされたアルバム『Theoretically Chinese』の先行シングルで、レコーディングに莫大な費用がかかった。ニュー・オーダーやア・サートゥン・レイシオのメンバーがゲスト参加したこのアルバムは、ジェイムズ・ナイスが言うように「プロデューサーのアラン・ランキンとデイヴ・フォーミュラによる、豪華で高価なサウンドのダンス・アルバムで、聴いた者すべてを驚かせた」。『Theoretically Chinese』の成功により、トンのセカンド・アルバムのレコーディングが計画されたが、1987年にトンがアメリカに戻ったため、中止となった。
ブレイン・レイニンガーとスティーヴン・ブラウンは、しかしまだブリュッセルに住んでいて、クレプスキュールのためにレコーディングを行った。ブレイン・レイニンガーは、ベース奏者のアラン・グティエ(Alain Goutier)と録音したミニアルバム「Paris En Automne」を1985年7月に、続く『Live In Brussels』を1986年10月にリリースした。1987年4月には、クラフトワークへのトリビュート・シングル「Rolf And Florian Go Hawaian」を収録した『Byzantium』がリリースされ、その後、レイニンガーは『1890-1990: One Hundred Years Of Music』のライヴ・セットのためにスティーヴン・ブラウンと組んで、これはポルトガルで録音され、1990年3月にリリースされた。続いて、レイニンガーは1990年9月に『Songs From The Rain Palace』を、ブラウンは1991年4月に『Half-Out』をリリースした。これがクレプスキュールでの最後のアルバムとなった(レイニンガーのインストゥルメンタル・コンピレーションと『Brussels/USA』コンピレーションの再発を除けば)。レイニンガーとブラウンはその後、LTMレコーディングス、アンク・プロダクションズ(Ankh Productions)、マテリアリ・ムジカ(Materiali Musica)といったレーベルからソロ・アルバムをリリースした。
さて、再び話を戻そう。
ブランコ・イ・ネグロ、エル・ベネルクス、アンナ・ドミノ、アンテルフェランス
クレプスキュールの1984年の作品は、それ以前の作品に遅れをとった。これはおそらく、氾濫していた興味深いバンドや新鮮な才能が枯渇するという、その頃に多くのインディー・レーベルを襲った「危機」のせいだろう。プレジャー・グラウンドのような新規契約バンドは、タキシードムーンやザ・ネームズのようなバンドから受け継いだ炎を担えないことがわかってしまった。唯一の例外はアンナ・ドミノで、デビュー・シングル「Trust In Love」を1983年末にリリースした。1984年初頭、ドミノはクレプスキュールの重鎮ブレイン・レイニンガーの協力を得て、有望なミニアルバム「East & West」を制作した。
しかし、クレプスキュールの1984年の作品が低迷した主な理由は、アイランドとの関係が頓挫したこと(アイランドはすでに完成していたポール・ヘイグの2ndアルバムを発売中止にした)、そしてデュヴァルがジェフ・トラヴィス(ラフ・トレード)、マイク・オールウェイ(チェリー・レッド)と共にブランコ・イ・ネグロ・レコーズ(Blanco Y Negro Records)に参加し専念していたことだった。ブランコ・イ・ネグロがブリュッセルのベルントーラー(Berntholer)のシングル「My Suitor」をリリースしたことは興味深い(プロデュースとアレンジはウィム・メルテン)。
トラヴィスとオールウェイ、デュヴァルのパートナーシップは長くは続かず、オールウェイとデュヴァルはすぐに脱退した。オールウェイは1984年秋に、折衷的で、後にコレクターが多くなるエル・レコーズを設立したが、その音楽の哲学とスタイルはクレプスキュールに多くを負っている。クレプスキュールは当初、エルを製造面で支援してもいた。最初の5枚は、実際にはエル・ベネルクス(él Benelux)のレコードである。
1984年の4月と5月、クレプスキュールのレコードは、当時のディストリビューターであったヒマラヤの協力を得て設立された新レーベル、アナザー・サイドに移管された。しかし、そのうちの半分はテストプレスの段階から進まず、リュダスの「Completement Nue Au Soleil」12インチはイタリアでベース・レコーズ(Base Records)からごく限定的にリリースされただけだった。
ポール・ヘイグの「The Only Truth」は、ニュー・オーダーのバーナード・サムナーとア・サートゥン・レイシオのドナルド・ジョンソンとのコラボレーションで、英国ではアイランド・レコードからUSリミックス12インチの限定盤を含む過剰なフォーマットでリリースされた。その直後、アイランドはヘイグを見捨てたのだが……。
ここでさらに2つの1984年の限定盤をあげてみるのも一興だろう。ソフト・ヴァーディクトの12インチ「The Power Of Theatrical Madness」は、ヤン・ファーブルの同名舞台の公演中に限定販売されたもので、「Merry Christmas」というミニアルバムは、ウィム・メルテン、シック・ピジョン、カレント93、アルカディアンズ、プレジャー・グラウンドの楽曲が収録されている。このミニアルバムはクリスマス・プレゼントとして送り出されたもので、ブリュッセルのグラン・プラスにあった今はなきカフェ兼アート・センター、アンテルフェランス(Interferences)で配られた。アンテルフェランスは、ファクトリーのハシエンダに対するクレプスキュールからの回答として1983年12月にオープンした。アンテルフェランスの質素で直線的な内装は、エンヌベールのデザインによるものだった。
1984年の記述は、コイル、カレント93、ライバッハ、ザ・ハフラー・トリオといった高い評価を得たインダストリアル系アーティストの初期の本拠地、レイラ・アンチレコーズ(L.A.Y.L.A.H. Antirecords)の誕生を抜きにしては語れないだろう。1989年まで存在したこのレーベルは、1984年初めにクレプスキュールによって軌道に乗せられ、その後、ディストリビューターのヒマラヤと合流した。レイラの多作な名簿は、もちろんここで横道として触れられるだけではなく、もっと多くの注目に値する。
新たな方向性
1985年は、クレプスキュールにとって、新しく、より洗練された、メインストリームへの方向性の始まりだった。だからといって、このレーベルが前例がなく耳慣れない音楽をリリースするという目的において後手に回っていたわけではない。とはいえ、アンナ・ドミノ、ウィンストン・トン、キッド・モンタナ、元アソシエイトのアラン・ランキンのようなアーティストたちは、間違いなくアヴァンギャルドの最前線で戦ってはいなかった!
1985年初頭、クレプスキュールはポール・ヘイグを説得し、ミニアルバム「Swing In '82」をリリースした。このアルバムは、タイトルが示すように、ヘイグがベルギーの首都に住んでいた1982年、「Running Away」、「Blue For You」、「Justice」のセッションの頃にブリュッセルで録音されたものである。当初は10インチでリリースされる予定だったこの異色のアルバムには、「Love Me Tender」「Let's Face The Music And Dance」他3曲のビッグバンド式のカヴァー・ヴァージョンが収録されている。
ヘイグの寄り道以上に不思議なのは、アルカディアンズのアルバム『It's A Mad, Mad World』だ。アンテルフェランスでコックとして働いていた元ボーダー・ボーイズの「ルイ」ことフィリップ・オークレアのこの(デビュー・)アルバムは、日本では限定リリースされたが、こちらではお蔵入りになった。1986年、オークレアはエル・レコーズと契約し、ルイ・フィリップとしてレコーディングを始めた。しかし、1988年になって、クレプスキュールは、ほとんど真っ白なジャケットで、オークレアの最初のLPをインテリア・ミュージック(Interior Music)から再発させた。
アルカディアンズのアルバムとともに、クレプスキュール・オ・ジャポンは、リチャード・ジョブソンによる限定盤アルバム『Un Hommage A Marguerite Duras』をリリースした(ヴィニ・ライリーの未発表曲3曲を収録)。
ローム・アルム
1985年8月、クレプスキュールの新しいプロジェクト、ウィム・メルテンのディレクションによるクラシカルなローム・アルム(Lome Arme)シリーズがスタートした。このシリーズは、17世紀のポルトガルの作曲家ジョアン・ローレンソ・レベーロ(João Lourenço Rebelo)の音楽を、名高いウエルガス・アンサンブル(Huelgas Ensemble)の演奏で収録した秘教的なアルバムで幕を開けた。その後2年間でさらに5枚のローム・アルムのレコードが発行されたが、7枚目のLP、コーネリアス・カーデューの『Lowlands Recital』はキャンセルされた。
夏の終わりにクレプスキュールは新しいUK支部、オペレーション・アフターグロー(Operation Afterglow)を立ち上げたが、オペレーション・トワイライトと同様、このレーベルも長くは続かなかった。
ポール・ヘイグの『The Warp Of Pure Fun』(未発表アルバム『Island』からの数曲を収録)、ウィンストン・トンのアルバム『Theoretically Chinese』(プロモ限定の12インチ「Interview」が付属)、ソフト・ヴァーディクトの2枚組アルバム『Maximizing The Audience』がこの年のハイライトだった。後者はもともとボックス・セットとして発売され、24ページの本も付いていた。トンのアルバム『Dream Assassins』からのアウトテイクは、レイラから12インチでリリースされる予定だった。しかし、ニキ・モノがヴォーカルをとるこのゴシック調のトラックはリリースされなかった。
クリスマスは、ポール・ヘイグの「Scottish Christmas」(1988年の『Ghosts Of Christmas Past』CDに収録)と、ドゥルッティ・コラムのファクトリー・ベネルクス未発表アルバム『Short Stories For Pauline』からの2曲を収録したギフト/通販限定7インチで祝われた。この2曲は、後にファクトリー・ベネルクスからリリースされたドゥルッティ・コラムのコンピレーションCD『Lips That Would Kiss』に収録されている。
クレプスキュール・コレクション
1986年には、『ブリュッセルより愛をこめて』の2枚組LP版を含む6つ以上のコンピレーション・アルバムと、3枚のクレプスキュール音源のコレクション・アルバムがリリースされた。『The Quick Neat Job』、『State Of Excitement』(タイトルはイアン・フレミングの未発表本『State Of Excitement: Impressions On Kuwait』(1960年)からの引用)、『The Rough With The Smooth』の3枚で、いずれもバック・カタログの音源とお蔵入りになっていた未発表曲を組み合わせたものだった。
春先、クレプスキュールは「Collection Ete 86」を発表し、ファッションへと参入した。しかし、このレーベルのラインには、黒と白の2色から選べるシャツ1枚しかなかった。翌年、クレプスキュールの黒いジャンパーが発表され、問題は一段落した。
1984年にこのレーベルを離れ、マーキュリーに移籍していたイザベル・アンテナが、ファンキーでジャズ風味のアルバム『En Cavale』で復帰し、これは彼女のさらなるキャリアの基調となった。アンナ・ドミノのセルフタイトルの「デビュー」アルバムは、間違いなくこの年のクレプスキュールのベストだった。アルバムからのシングルのひとつ「Rythm」は、ヨーロッパのいくつかの国でトップ10ヒットを記録した。
『A Man Of No Fortune And With A Name To Come』で、ウィム・メルテンはソフト・ヴァーディクトという呼称をやめた。このアルバムは、ピアノ&ヴォイスのソロアルバム・シリーズの第1弾であり、これまでで最も意欲的な作品となった。一方、アラン・ランキンは、クレプスキュールからの初のソロアルバム『The World Begins To Look Her Age』を発表したが、アソシエイツでの初期の作品にはとても及ばず、期待外れに終わった。
12月には『Ghosts Of Christmas Past』の3枚目のアルバムがリリースされ、「The Final Mix」と発表されたものの、この主張は事実でないことが証明されることになる。
1987年初頭、クレプスキュールは4枚目のコレクション・アルバム『Death Leaves An Echo』をリリースし、さらに『Wait Until Dark』と『For Tomorrow We Live』の2枚が予告されたが、発売されることはなかった。
ヨーロピアン・サン
『The Warp Of Pure Fun』のセールスに不満を抱いていたポール・ヘイグは、イギリスのレーベル、サーカ(Circa)と契約した。彼のクレプスキュールのキャリアは、『European Sun, Archive Collection 1982-1987』に記録されている。このアルバムには、キャバレー・ヴォルテールとのコラボレーション曲「Executioner's Theme」など、未発表曲が収録されている。これはファクトリー・ベネルクスからリリース予定だったものの、ファクトリーがこのレーベルを閉鎖したために発表されなかった曲だ。「Europian Sun」に続き、88年初頭には、現在では入手困難となっている「Torchomatic」の12インチがリリースされた。これはヘイグの未発表曲4曲を含み、007の「ゴールドフィンガー」を模したジャケットに収められている。他にも2枚の12インチ「Reach The Top」と「Swinging For You」がレコーディングされ、リリースされる予定だったがキャンセルされた。後者はA面としては奇妙すぎるという理由で、前者はヘイグがもっといいヴァージョンを作れると思われたからだ。一時期、ビリー・マッケンジー(ザ・アソシエイツ)がプロデューサーのトレヴァー・ホーンと「Reach The Top」をやるという話があった。このアイデアは実らなかったものの、マッケンジー・ヴァージョンの「Reach The Top」は、未発表のアソシエイツのアルバム『Glamour Chase』(WEA)に収録されている。一方、マッケンジーの「Chained」のポール・ヘイグ・ヴァージョンは、サーカからリリースされたヘイグのアルバム『Chain』に収録されている……。
アラン・ランキンの2枚目のソロアルバム『She Loves Me Not』は、処女作からのリミックス曲で構成され、ヴァージンとの提携でリリースされたが、前作同様、印象に残る作品とはならなかった。このアルバムからリリースされた2枚のシングル、「The World Begins To Look Her Age」と「The Sandman」のB面に収録されたインストゥルメンタル曲は混乱を招いた。いずれも「Can You Believe Everything I See?」というタイトルでパート1から3を成し、1986年版『ブリュッセルより愛をこめて』にも収録されているのだが、それぞれまったく別の音楽をカバーしているのだ! 未発表シングル「Days And Days」の片面12インチ・テストプレスもあることを付記しておこう。
インテリア・ミュージック
1988年1月、ジェイムズ・ナイス(レ・タン・モデルヌ)が経営する新しい子会社、インテリア・ミュージックが、2年以上保留になっていた2枚のアルバムをリリースした。リュダスの素晴らしい『Nue Au Soleil (Complètement)』、原題は『Let Me Go Where My Pictures Go』、そしてキャバレー・ヴォルテールの『Eight Crepuscule Tracks』である。3月には、インテリアからアルカディアンズのアルバム『Mad, Mad World』のユーロ盤と、珍しい日本盤『Un Homage A Marguerite Duras』が『Hommage A Duras』と題され、いくつかの異なる曲とまったく新しいジャケットとともにリリースされた。同月には『Minutes To Go - Hommage A William S. Burroughs』もリリースされた。3枚目の「オマージュ」アルバム『Hommage A Lautreamont』も予定されていて、これはイジドール・デュカスとしても知られる19世紀の作家に捧げたもの(ア・サートゥン・レイシオの曲「Do The Du(casse)」のように……)だったが、ブリュッセルのシンガー/作曲家でブレイン・L・レイニンガーのコラボレーターでもあるクラウス・クラング(Klaus Klang)の素晴らしく豊かなアルバムと同様、実現しなかった。
ニュー・オーダーの『T.V.サルベーション』
一方クレプスキュールは、ニュー・オーダーの「Touched By The Hand Of God」ほかここでしか手に入らない4曲(「Let's Go」のオリジナル・インストゥルメンタル・ヴァージョンを含む)を収録した、ベス・Bの映画『T.V.サルベーション(Salvation!)』のサウンドトラックを1988年2月にリリースした。このアルバムはファクトリー・ベネルクスとクレプスキュールの共同リリースだった。このアルバムのために依頼されたピーター・サヴィルの見事なジャケットは不適切とされ、代わりにとんでもなく標準以下の、違法ビラのようなデザインに変更された。クレプスキュールは、遅かれ早かれオリジナルのサヴィルのアートワークで再発すると約束しているが、堪え性のないファンは、ポリグラムから全フォーマットでリリースされたカナダ盤を探すべきだ。
5月、高名なサウンドトラック作家ガブリエル・ヤレドの『Shamrock』がリリースされた。Shamrock』は(ヤレドにとって初の)バレエのためのスコアで、クレプスキュールのリリースの中で最も見過ごされている作品のひとつである。
未発表曲を多数収録したウィンストン・トンの2枚組LP/CD『Communion』は、おそらくタキシードムーンの再結成ツアーに合わせて1988年春にリリースされる予定だった。しかし、トンは承認したものの、このセットは残念ながら発売中止となった。
1988年の日本盤で特筆すべきは2枚。イザベル・アンテナの『On A Warm Summer Night』は、彼女のアルバム『Tous Mes Caprices』の初期ミックス・バージョンで、同年末にヨーロッパで別のジャケットでリリースされた。また、ブレイン・レイニンガーの『Instrumentals 1982-1987』は、インテリア・ミュージックのミニアルバムには収録されていない5曲が収録されている。なお、『Instrumentals』は1991年にクレプスキュールからエクステンデッドCDフォーマットで再発されており、未発表曲3曲と不思議な隠しトラックが収録されている!
クリスマスには、クレプスキュールからクリスマス・メッセージ入りのロゴ入りビスケットが送られ、彼らの最後のクリスマス・ディスクとなった、過去のクリスマス・レコードからの音源を収録した18曲入りのベスト盤CD『Ghosts Of Christmas Past』がリリースされた。
新しいアーティスト、新しい部門
1989年初頭、イアン・ディヴァインとアリソン・スタットン(元リュダス/元ウィークエンド)のデュオのデビュー7インチ「Under The Weather」は、その朗らかなA面よりも、B面であるニュー・オーダーのテクノ・ヒット「Bizarre Love Triangle」のアコースティック・ヴァージョンで注目を集めた。このカヴァー・ヴァージョンは、彼らのアルバム『Prince Of Wales』や、さまざまなコンピレーションのほか、のちに再発された限定盤12インチにも収録されている。
秋にリリースされるシングルとアルバムのプロモーションのため、クレプスキュールはラジオとプロモ専用のカセット『Mmm Ahhh Ohhh』を制作した。一部のコピーには、お揃いのTシャツが無料で付いていた。
1989年の海外活動には、英国市場向けに特別に制作され、キャロライン配給会社と共同でリリースされた2枚のサンプラーが含まれる。アンナ・ドミノの『L'Amour Fou』とイザベル・アンテナの『Fire』である。同レーベルはまた、メモリー・テック社との提携により、『New Music For America』という米国向けのサンプラーCDも発行した。
1990年には、もう2つの(短命に終わった)部門が設立された。ダンス・レーベルのダンサイクロペディア(Dancyclopaedia)と、ファッツ・ガーデン、ペリー・ローズ、キャンディ・メンといったストレートなロック・アーティストの拠点であるリトル・サークル(Little Circle)である。
フランスの有名な俳優ジャン・ルイ・トランティニャンの娘マリー・トランティニャンは、アポリネール、テスカロ、デスノスなどの詩や散文を収録した素晴らしいカセット『Poemes A Lou』をリリースした。彼女の父親は、ジャン=ルイ・ミュラ(Jean-Louis Murat)とともに『Prosse Du Transsyberian』というクレプスキュールの同様のプロジェクトに取り組んでいた。何曲かはコンピレーションに収録されたが、プロジェクトは頓挫した。
ウィム・メルテンのバック・カタログは、豪華なパッケージの6枚組CDボックス・セット『Play For Me』としてまとめられ、全録音の詳細が掲載された20ページのブックレットが付属している。UKを拠点とするウルトラマリンが制作したアルバム『Folk』は、マリーン、コンク、タキシードムーンといった初期のクレプスキュールから影響を受けた楽曲が満載で、まるでクレプスキュールのバック・カタログを一通り聴いたかのようだった……。
『Jouez Le Cinq』の2曲とアートワークに不満だったイザベル・アンテナは、このアルバムを『Intemporelle』としてCDのみで再発売させた。『Jouez Le Cinq』は即座に廃盤となり、特にCDは最近入手困難となっている。一方、スペインのガサ(Gasa)は、CDと同じジャケットで、「Intemporelle」というタイトルの12インチをリリースした。
10月20日、ギャヴィン・ブライヤーズのCD『The Sinking Of The Titanic』の発売を記念して、ブリュッセルのプールで1回限りのパフォーマンスが行われた。「The Sinking Of The Titanic」の23分の初期バージョンは、1975年にブライアン・イーノのレーベル、オブスキュアからOBS 1としてリリースされている。このCDには、1976年にこの作品が初演されたフランスの「プランタン・ド・ブルージュ(Printemps De Bourges)」フェスティバルにて、給水塔でライブ録音された65分のバージョンが収録されている。
前年同様、クレプスキュールは秋のリリースを宣伝するためにサンプラーを制作した。今回は、限定の廉価版CD『Un Peu, Pas Vraiment』という形をとった。
『ブリュッセルより愛をこめて』の10周年は、あまり祝われることなく過ぎていった。プロモ・オンリーのコンピレーションCD『Au Fur Et A Mesure, Crepuscule 10 Years?』は、ア・サートゥン・レイシオの「Shack Up」からキャシー・クラレの「Toi」まで、クレプスキュールのこれまでの歴史を15曲のアンソロジーにまとめたもので、これが唯一の記念品となった。
キャバレー・ヴォルテールの帰還
「Fools Game」の12インチ(TWI 120)から約9年後、キャバレー・ヴォルテールは1991年初めにクレプスキュールに戻り、12インチ「What Is Real」、アルバム『Body And Soul』、ミニアルバム「Percussion Force」を発表した。これらの作品は、バンド初のアンビエントの実験であり、彼らのカムバックの始まりを意味していた。クレプスキュールのもう一人のベテラン、元シック・ピジョンのシンガー、ミランダ・ダリは、ブリュッセルのレーベルから同名の素晴らしいCDをリリースした。ウィム・メルテンは、2枚組CD2枚と3枚組CD1枚からなる待望の名作『Alle Dinghe』をリリースした。
キャバレー・ヴォルテール、ブレイン・レイニンガー、ポール・ヘイグ、アンテナ、ザ・ペイル・ファウンテンズなどが映画音楽を演奏した『Moving Soundtracks』は、当初1984年にLPでリリースされる予定だった(後に『State Of Excitement』のコンピレーションに使用された、エンニオ・モリコーネを模倣したジャケットに収められた)。1991年、このプロジェクトは新たな息吹を与えられ、5月に『Moving Soundtracks (Volume 1)』がCD化された。CD版は、オリジナルの構成よりもバランスが悪いと言わざるを得ない。
『Moving Soundtracks』と並んで、CDのみの限定盤『Some Of The Interesting Things You'll See On A Long Distance Flight』も登場し、オリジナル・カセットとLPから8曲、未発表曲10曲(ザ・ドゥルッティ・コラム、ザ・ネームズ、アンテナ)が収録された。
アンナ・ドミノのコンピレーション・アルバム『L'Amour Fou』の最新版が日本のみでCD化されたのは5月のことで、ユーロ盤は土壇場で発売中止となった。
珍しいことに、秋の新譜はほんのわずかだった。10月には、ウィム・メルテンのピアノ&ヴォイスの第3集『Strategie De La Rupture』が発表された。その1ヵ月後には、4曲の未発表ショートトラックを収録したCDシングル「Hufhuf」がリリースされ、ジョン・ケイルの素敵なCDのみのサウンドトラック・アルバム『パリ・セヴェイユ(Paris S'Eveille)』とデヴィッド・リンクス『Moon To Your Sun』のCDも発売された。後者は「史上最悪のクレプスキュール・アルバム」トロフィーの有力候補である。
また、ウルトラマリンの素晴らしい、後に高く評価される「アンビエント・フォーク」アルバム『Every Man And Woman Is A Star』のリリースも決まっていた。しかし、このアルバムはクレプスキュールからはリリースされず、イギリスではブレイニアック(Brainiak)からリリースされた。その後、ラフ・トレードが『Every Man And Woman Is A Star』に追加トラックを加えて再発し、バンドはブランコ・イ・ネグロと契約、90年代初頭のイギリスで最も革新的なオルタナティヴ・バンドのひとつとなった。
ギアを落として
1992年1月、デュヴァルは音楽に嫌気がさしたようで、スローダウンすることを決めた。この年にリリースされたアルバムは、グレン・ブランカの魅力的な『The World Upside Down』、ラウンジ・リザーズとジャズ・パッセンジャーズのギタリスト、マーク・リボーのCD『Requiem For What's His Name』など5枚のみだった。11月下旬、クレプスキュール・オ・ジャポンからイザベル・アンテナの『Carpe Diem』がリリースされた。
バレエ『Le Diable Amoureux』のために作曲されたガブリエル・ヤレドの2枚目のCDは発売されず、「ジャズ、シャンソン・フランセーズ、ポップス、映画のサウンドトラック、ロック、現代音楽の驚くべきミックス……レーベルのターニングポイント」と発表された野心的なコンピレーションCD『The Entire Population Of China』が発売されたのは……日本だけだった。
1993年以降、クレプスキュールのリリースは、毎年わずかな枚数に制限されることになる。1月にリリースされたイザベル・アンテナのCDシングル「Corto Prend Le Large」と彼女のアルバム『Carpe Diem』のユーロ盤は、フランスのデラベル(Delabel)とのライセンス契約だったため、ちょっとした出鼻をくじかれたようなものだった。
春先、ウィム・メルテンの真新しいアルバムが登場した。『Shot and Echo』である。追加CD『A Sense Of Place』を含む限定ボックス版も発売された。5月、ポール・ヘイグが再びクレプスキュールに戻り、1991年のサーカの未発表アルバム『Right On Line』のほとんどの曲を収録した『Coincidence Vs Fate』を発表した。サーカのアルバムからの残りの曲は、CD-EP「Surrender」に収録されている。また5月には、マリー・オーディジエ(Marie Audigier)のセカンド・アルバム『Ces Etes』がついに発売された。
9月下旬、クレプスキュールからジョン・ケイルの2枚目のサウンドトラック『La Naissance De L'Amour』がリリースされ、続いて1986年のデゥルッティ・コラムのアルバム『Circuses And Bread』が、今回は『Bread And Circuses』としてCD再発された。数カ月後には、1989年にリリースされたマーク・リボーの『Haitian Suite』LPがクレプスキュールからCD再発された。
1994年3月には、ブレイン・レイニンガーの優れたコンピレーションCD『Brussels, USA』と、伝説的なヤング・マーブル・ジャイアンツのアルバム『Colossal Youth』のエクステンデッドCD再発があった。
また3月には、ウィム・メルテンがリスボンで録音した初のライヴCD『Epic That Never Was』をリリースした。11月にはクレプスキュールから『Alle Dinghe』の続編『Gave Van Niets』がリリースされ、2枚組CD2枚と3枚組CD2枚を含む約7時間に及ぶ記念碑的作品となった! メルテンは言う。「私はもはや見渡すことができないものを創り上げる気持ちや感覚を体験したかったのです」。私は彼は成功したと確信している。
ウィム・メルテンは、1995年の最初のリリースとして、彼のピアノ&ヴォイス・シリーズの最新作『Jeremiades』を契約した。同月、クレプスキュールはジャズ・パッセンジャーズのコンピレーションCD『Cross The Street』をリリースし、9月にはジョン・ケイルのサウンドトラックCD『Antartide』がリリースされた。
ラップ・フランコフォン、クレプスキュール・フランス
1996年初頭、ジョン・ケイルの新作サウンドトラックCD『N'Oublie Pas Que Tu Vas Mourir』が発売され、4月には待望のデゥルッティ・コラムの新作CD『Fidelity』と、ヤン・キーミューレン(Jan Keymeulen)監督の映画のサウンドトラックであるウィム・メルテンの『Lisa』のCDが発売された。
6月には、フランスのラップ/ヒップホップ・アクト、2Bal 2Negのデビュー・アルバム『3X Plus Efficace』が発売された。10月にはウィム・メルテンの記念碑的アルバム『Jardin Clos』がリリースされ、その前にCDシングル「As Hay In The Sun」がリリースされた。グレン・ブランカの『Symphony #3』の待望のユーロ版CDも10月に発売され、11月には『The Domino's Gotta Get Out』のCDが発売された。クレプスキュールの基準からすると、忙しい年だった。
1997年5月には「新しい」コンピレーションCD『Twilight Easy Listening』が、6月にはラップのサウンドトラック集『Ma 6-T Va Cracker』が、元クレプスキュールのアーティスト、マリー・オーディジエが主宰するレーベル、クレプスキュール・フランスからリリースされた。ウィム・メルテンのソロ・ギターCD『Sin Embargo』は11月初旬にリリースされ、その数週間後にはまたもやメルテンのコンピレーションCD『Best Of』がリリースされた。
フランク・ブリンクホイス、1990年/1997年
原注
『プレイン・ソレイユ』(太陽がいっぱい)は、クレプスキュール(黄昏)と対立するだけでなく、このタイトルは、フランスのルネ・クレマン監督による1959年のアラン・ドロン主演の同タイトルの映画への言及でもある。『太陽がいっぱい』(英題:Purple Noon)の登場人物の一人はデュヴァルという名前で、もう一人の登場人物は「ベルギーの女」とクレジットされている。
このタイトルは、アラン・ドロンとシドニー・ローム(後者はミス・クリージー役)が出演したピエール・グラニエ=ドフェール監督の1974年の映画『個人生活(La Race des Seigneurs)』(英題:Creezy)にちなんだものだと思われる。セザール・ゴメスは、このタイトルはサミュエル・ベケットの『マーフィー』にインスパイアされたものだと示唆している。「ドワイヤー嬢の愛情を得ることは、たとえ1時間の短い間であっても、私にとって何にも代えがたい利益になるだろうと彼は言った」(Calder Publications, Montreal & London, 1993, p.7)。
[翻訳:sosaidkay]
訳者からひとこと
これはフランク・ブリンクホイス氏のWebサイト、「The Crepuscule and Factory Pages」に掲載されていた、レ・ディスク・デュ・クレプスキュールの歴史についての記事を訳してみたものです。90年代なかばに初めてインターネットに接続した私にとって、このサイトは最初の衝撃のひとつでした。レーベルの詳細かつ完全なディスコグラフィーが、紙幅を気にせずフルサイズで掲載されていて、読んだことのない歴史解説まで載っていたので。
サイトのトップページには、「ここではレ・ディスク・デュ・クレプスキュール、ファクトリー、ファクトリー・ベネルクスの歴史が読めます。これらは元は1990年代始めに『New Musical Express』(UK)や『Record Collector』(UK)、『Magic』(フランス)にて執筆されたものです」とあるので、ブリンクホイス氏が雑誌記事を1997年ごろにWebサイトに掲載するにあたって加筆修正を行ったものと思われます。
つい最近まで公開されていて非常に頼りになるサイトだったのですが、現在アクセスすると2023年9月20日をもって「廃止」されたと表示されてしまいます。このため翻訳にあたってInternet Archiveのキャッシュデータを参照させていただきました。
なお現在は同じくブリンクホイス氏による歴史記事が、クレプスキュールの公式サイトでも読めます。
https://lesdisquesducrepuscule.com/history.html
文言は異なりますが論旨の運びなどは共通したところが多いので、上記の古い記事も参考に書き下ろしたものかと思われます。どうせなら現在も公開されている方を翻訳すべきか、迷ったのですが、比較して情報量が多いと思われた古い記事のほうを訳してみました。
というのも、特にブランコ・イ・ネグロやエル・ベネルクスなど、この翻訳シリーズでも追ってきたマイク・オールウェイとクレプスキュールの絡みがこちらの記事のほうが詳しく載っていたからです。エルの折衷的な音楽哲学やアートワークのスタイルは「クレプスキュールに多くを負っている」とはっきり書いてありますし、そもそもエルの立ち上げ時(エル・ベネルクス)は製造面でもクレプスキュールの一部だったとあります。
たしかにエルのアートワークに見られる、古い雑誌の切り抜きをコラージュする手法や、古典的なようでいてそれ以前の何にも似ていない不思議なバランスの構図は、クレプスキュールのレコードと共通していますよね。そして当然そのビジュアルイメージは、日本の「渋谷系」にも大きな影響を与えているはずです。この独特の美学を完成させたと思われるデザイナー、ブノワ・エンヌベールは、もっともっと功績が称えられていい人物に思えます。
そしてエル・レコーズのルイ・フィリップも、もとはクレプスキュールが持っていたアンテルフェランスなる「カフェ兼アート・センター」のコックさんだったとは……。ボーダー・ボーイズやアルカディアンズなど、ルイの初期作品がクレプスキュールがらみのリリースなのはそういうコネクションだったんですね。
ベルギー拠点のレーベルでありながら、ファクトリーやポストカードなど、なぜかUKのレーベルやアーティストとのつながり深いことも、あらためて順を追って見ていくとよくわかります。ポストパンクのポップが大陸と連動しながら同時進行で盛り上がっていって、82~83年ごろ爆発し、84年以降は停滞期に入るというこの感じも、「ネオアコ」の話を調べていくとよくぶち当たる構図ですね。
日本の新星堂の存在の大きさも確認できます。新星堂というのは80年代当時を知る我々にとってはいわゆる町のレコード屋チェーンですが、そういう会社が1984年以降(この記事では「1983年初頭」とありますが)、「新星堂シリウスコレクション」としてクレプスキュール、ファクトリー・ベネルクス、チェリー・レッドのレコードの配給をスタートし、初期は輸入盤に帯を付けたスタイルで、後には日本限定リリース作なども作って重要な支部に育っていったという事実。それは日本でのネオアコ~ニュー・ウェイヴ受容にものすごく影響を与えているはずですし、本国にとっても重要な市場になっていたことがよくわかります。そもそも「ネオアコ」が日本でのみ通用する和製語だというのには、この80年代前半の特殊な環境が関係しているのでしょう。
それと面白かったのは、お蔵入りや未発表音源の多さ。それでいて、コンピレーション盤を乱発する感じ……。ビジネス的にはどうなんだろうと思ってしまうところもありますが、まあそこは美学を貫いた凄さのほうを称えるべきでしょうか。
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