『BUBKA』の小山田インタビュー
雑誌『BUBKA』2024年3月号の、吉田豪による小山田圭吾インタビューを読んだ。インタビューのけっこうな部分が、Velludoをリリースしたオフィスパラ周辺の話という、吉田豪らしすぎる内容で面白かった。でも単に80sインディーの重箱の隅をつつくだけではなく、小山田のキャリア展開を理解する上で意外と欠けたピースになっていた話も、新たにいろいろ聞き出しているとも思った。
母方の叔父さん(田辺靖雄)が六本木野獣会だとかいう小ネタを当てるのも吉田豪らしいけど、そうやって家系や交友関係をあらためてさらってみて感じるのは、小山田圭吾という人は良くも悪くも自分の恵まれた境遇を意識できずに来た人なのだろうということ。親族がほとんど芸能人か芸術家みたいな異常な家に育ち、小中高と和光というこれまた特殊な学校にいて、その後に目立った活躍をするようなクリエイターたちと早期から自然に知り合える環境にいた。
誇張しているわけでも見栄を張っているわけでもなく、聞かれたことに淡々と答えているだけなんだけど、まさにその本人にとって淡々とした現実にすぎないであろうものが、常人の環境とはかけ離れている。「べつにそんなお金持ちとかじゃないですよ」と本人は言うものの、同じ口から、恵まれた環境そのものの話が続く。
フリッパーズ・ギター時代はもちろん、コーネリアスというソロアーティストになってもしばらくはプロ意識などなかったこと。プロ意識がないなりに自分の見せ方を試行錯誤する中で、後々問題になる軽率な発言もしてしまったこと。しかし97年の『Fantasma』から海外活動が始まることで、初めて音楽家の仕事というものに自覚的になり、今に至ること。
音楽に自覚的になったとたん、オノ・ヨーコやYMOのような権威とやるようになるというのも、この人の特殊なところだ。吉田がここでも、「正直、意外だった」と素朴な感想を投げかけているのがとても良い。そうそう、前世代を否定する感じで出てきた人が、どうしてそんな権威たちと組んでいるのか、それはファンもみんな気になっていたところだろう。
小山田の回答はやっぱり淡々としている。高校時代にいろんなバンドでギター弾いてた感覚かと問われると、「あ、そんな感じです」とあっさり。「なんでもかんでもやる感じではないですけどね、YMOとかヨーコさんは自分が本当におもしろいと思える人だったから」。権謀術数をめぐらして「上昇」していったというよりは、「おもしろい先輩」に頼まれればやるという軽い感覚だったようだ。良くも悪くも、学生時代から一貫している。
「悪くも」というのは、まさに「パラリンピックという巨大な仕事」に対しても同じ感覚のままだったことが、吉田の質問でさりげなく明らかになっているからだ。五輪のときの大炎上は、根がUKインディーのサブカル体質な人にそんな巨大な仕事が来たからこそのトラブルだったのでは、との質問に対して、小山田はこう答えている。
「自分としてはそこまで大きな仕事と自覚できてなかったし、それこそCMやるのと同じ感覚で受けてしまったところがあって。理解できてなかったところがありましたね。」
たぶんそうじゃないかとは思っていたけれど、あらためて明言されるとなかなか衝撃的な感覚だ。ネット上で「いじめ」で有名になってしまっていることを本人も認識していて、ずっと気にしていたということは騒動後にいろんなところで言っていた。にもかかわらず、国家的行事への参加そのものについてほぼ無警戒だったとは。本当に、知り合いに誘われたからやっただけで、特別の覚悟などなかったということなのだろう。(※)
このインタビュー、いろんな評価があると思う。ただ私が思ったのは、小山田が「いい奴」であることは間違いがないだろうなってことだ。もちろん東京出身の特権階級であるとか、世間一般をナメてるだろうとか、一般人の心など分からない人間なんだろうとか、悪く言おうと思えばいくらでも言える内容でもあると思う。実際ファンの私から見てもちょっとムカつくくらい恵まれた人である。でも本人にとってはそれが現実なので、聞かれたらそのまんまに答えてしまう。この飾らなさ、「いい奴」としか言いようがない。
そのまんま、と言いつつも、記事の最後には15行分ほど空白がある。1行あたりの文字数を計算して、最後の1行まで詰め込む雑誌ライターらしいこだわりを感じさせることが多い吉田豪の原稿にしては、いかにも不自然な空白。「本人チェックで削った内容があるのかな」と考えるのが普通だろう。でも本人チェックがない雑誌が原因の一つになって、あんな大騒動が起きたあとでは、それは読者にとって必ずしも残念な空白には見えないのであった。
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