余剰

あまりにもSNSの類が苦手なので結局noteに戻ってきた。

歌詞を書くという意味での自分の言語能力は決して低くはないけれど、それがいざ相手のいるやり取りだったり、誰かが見る文章だったりとなるとその精度は途端にお粗末なものになる。嫌というほど痛感した。それもあってSNSは告知以外の事をすぐに消してしまうので、せめて自分の言葉が残る場所を確保しようという次第です。

最近の生活。「魚と猫」というアルバムを出して、例に漏れず曲を書けない期間があって、つい先週あたりからまた曲を書き出した。書けないか書かなかったのかで言えば圧倒的に後者の方がニュアンスとして近いのかもしれない。書くに値するような物事も、感情も、すっぽりと抜け落ちてしまっていた。これは、むしろある程度心が安定しているから起こることで「幸せ太り」が心に起こるようなものだと思った。僕は歌詞を書くときに心を絞る必要があって、とてもじゃないけれどそのままでは世に出せない気持ちを恋や愛といったフィルターでろ過して、ようやく人様の前に出せる綺麗なものが出来上がっていくのです。太ったら、その余剰分だけ絞れると考えたら僕はこれからとても良い歌詞を書かなければいけない。

人間の話。今年は学ぶことが多かった。「魚と猫」発売時のインタビューで答えたものがほぼ全てだけれど、人が好きな一年だった。影響を受けることは元々嫌いではないけれど、自分の中で絶対的に触れてほしくないゾーンを越した人間に対しては防御より先に攻撃に転じてしまうことがあった。それを「こういう人間もいるか」に落とし込めるように少しだけなった気がする。自分の中の許容量が増えると、相手に対しても愛情を持てるようになり、伝える言葉が変わる。表面を取り繕うことで"当たり障りのない好印象な青年"という立ち位置を獲得して悦に入るのはかなり中毒性がある。誰も自分を嫌わないし、僕は君たちをそんなに好きじゃないというスタンスは圧倒的に自分が優位に立てる(実際はそんなことはないが、自分がそう思えるだけで心の平穏は保たれるのだから有効だった)し、もし仲違いが起きても受けるダメージは少なくて済む。その分、人と深い付き合いは出来ないから感情のリターンが少ない。自己開示の返報性といって、人は曝け出してもらった分だけ自分も見せたいと思える心理があるらしい。それを続けることで友情や恋情に発展していく。本来、僕の創作はそうあるべきだと思う。深く付き合い、深く理解しようとし、深く傷つき、歌詞に落とし込む。そういう意味で「魚と猫」の特に後半に出来た楽曲は以前の自分では表現できないものが多かった。それでも、やはり嫌われるのは辛い。辛いし、怖い。恐らく昔の僕はかなり人が好きだったのだろう。それで勝手に傷ついて、勝手に自分を守るために無意識のうちに深く関わらなくて済むようにしたのに、それをまた自分で勝手に開いている。救いようがない。だからまた僕は喋らない自分が好きになるのだろうし、人とある程度距離を置けることに尊さを見出すのだろう。作品の内容は確実に変わる。多分、「フラワーガール」と「魚と猫」は人好きの僕が書いている。「真水」と「昼日中」は人嫌いの僕が書いている。こう見ると、そのタームを交互に繰り返していて学ばない人だなと思うが作品に自分の状態が影響しているだけマシだ。しなくなったら本当に終わりだと思う。

人との距離は適切に保ちたいけど、大事なものは大事で変わらないし、大事にしたい。天秤が平衡であるように生きていたい。

2020/11/23



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