返事

ワンマンライブ「春の曠日」、ご来場いただいたみなさま本当にありがとうございました。チケットを買えなかった人、開催地や時間の問題で来れなかった人、ライブに来る決心がつかなかった人、ごめんね。全てを同時に解消することは難しいけれど、次回ワンマンをやる際にはなるべく多くの人が足を運べるよう努めます。当日の動画や写真は「春の曠日」で検索をかけるとあげてくださっている方がちらほら居られます。ありがとう。見れなかった人のために、という文言に滲む優しさが僕はとても好きです。もちろん自分だけで楽しむのも静謐で良い選択ですし、聴いてくださっている方同士で繋がるきっかけになればそれもまた嬉しい傾向です。(#春の曠日 でも空海理でもいいので名前を入れていただけると来れなかった人も探しやすいかな。頼んでばかりでごめんね)

観に来てくれていた友達から「雪降ってるよ」「会場の外、お客さんいっぱいだよ」と写真が送られてきて一緒に並びたくなりました。あの場所で新たなファン同士の出会いが生まれていればいいよね。でも節度は大事だよ。相手の心をほぐせる話し方を心掛けて、健全なコミュニティを作っていってくれたら僕にとっても本望です。紳士たれ、淑女たれ。女々しくあれ。

差し入れは手紙が嬉しい、という旨の発言をずっとしていて最近は手紙を頂くことが本当に多くなりました。ありがとう。手紙は労力がかかるし、便箋を選ぶのだって神経を使うだろうし、留め具に何を用いるかもそう、僕がにおいについて言及したことにより更にハードルを上げてしまったような気がしていましたが皆さん各々の「好き」を詰め込んで送ってくれました。それが嬉しい。手紙は言葉そのものはもちろん、筆跡にも人柄が表れるのが好きで何度も読み返してしまいます。丁寧に下書きをする人、文字の大きさを揃えるよう気を遣う人、伝えたい言葉の熱量が筆圧に出る人、伝え方に困って推敲を繰り返したのであろう消し痕、全部愛おしいです。顔は見えないけれど、例えばテープの貼り方ひとつとっても端まできっちり貼る人なのか、真ん中を短いテープで留めるのか、ちょっと長く切っちゃって表に折り返しているのか、とか。なんとなくその人が視えます。僕の曲と出会った時の年齢、その時の境遇、それを経て今何を思うのか、応援というより対話のような文章が多かったのも確実に一緒に人生を歩んできてくれたんだなという意識が垣間見えて微笑ましかったです。あと、みんな文字と文章が綺麗ね。その中でいくつか質問に似たものをいただきましたので、今回はそれについて言及する場にしようと思います。差し入れはその他にもドライフラワー(可憐!)リップオイル(センスの美しさ..)りんごジュース(とても美味しい)あと食べ物もたくさん頂きました。自意識過剰かもしれませんが、みんな買う時に僕を思い浮かべて選んでくれたのだと思うと愛しくて仕方ありません。改めて感謝いたします。

  • こういった表現をお好きでないかもしれませんが~ 

皆さんのお心遣いの精度というか深度から、文頭にこう書いてくださる方がとても多くいらっしゃいました。日本語の侘び寂びであり、こちらが受け取るであろう感情まで先読みしてこの一文を置いてくださるのはとても美しい意識だと思いました。大丈夫です。僕も一人間ですので意外と言葉をそのまま受け取ります。表面的なものだけを掬うのは時に危ういですが、言葉を尽くしてくれた人の意図というのは存外まっすぐ伝わるものです。どんな表現でも恐れず使ってください。最終的に自分で歌詞を書こうね、全員。

  • ファンの歌詞の考察についてどう思いますか?

どうだろう、正直あまり深く考えたことはなかったですね。僕は常にあなたたちと言葉という分野に置いて対等だと思っています。僕が句読点をつけるのは「僕はこう思っているよ」という自己発信です。例えば「魚と猫」という楽曲の中で言えば

「ふと思い出すあなたは」or「ふと思い出す。あなたは」だと意味が全然違うのは解りますか?前者はぼやっと輪郭のないあなたのための言葉、後者は「あなたは」の次に続く行動をしている"あなた"を鮮明に思い出せているさま。句読点をうつ位置で思い出の呼び戻し方を変えています。

ただ、あくまでこれは"僕はぼんやり髪を無意識に触ってしまうあなたを思い出したかったんだ"という意味なので解釈の不一致など物の数ではありません。それぞれの心の中に思い出す「魚」と「猫」が居ていいんだと思います。そもそも会話は不完全なもので、表情と声のトーンという補助があってもすれ違うことが多々あります。考察や"私はこう思った"は自由に発信してください。「私はこう思う」に対して「そっか」くらいの温度感で受け取ります。

  • コミティアでお見かけしましたが、あの空間をどう感じましたか?

まさかのニアミス。実は、先週行われていたコミティアにイラストレーターのチェリ子さんのご厚意で入れていただきました。語弊があるかもしれませんが、姉のように(勝手に)慕っていて一歩引いたところから生き方についてアドバイスをくれるお方です。何なら売り子もしてました。今回ライブで着ていた猫の刺繍シャツはイラストレーターのゆのさん(拙作「彼女」「可笑しい」などでご一緒させていただいています)のグッズでして、そのゆのさんに会いにいったり、最近狂ったように読んでいる漫画「マーブルビターチョコレート」の作者である幌山あきさんにサインを貰いにいったりしてました。漫画について詳しくは割愛しますが、僕の楽曲が好きな人は本能で好きになれると思います。消費という行動のおぞましさと是非、どこまで人間でありたいか、そこから生まれる作品って綺麗なのか、容赦なく叩きつけてきます。

あの空間をどう感じたか、というと「懐かしい」の一言に尽きますね。僕も同人の出身なので即売会というものは何度か出ました。最近は出ていないので忘れていましたが、あの場所にいる全員が誰かを好きで、その人の場所まで向かう足取りの勇ましいこと勇ましいこと。きらきらしていますね。とても好きな光景です。エンタメにおける「消費」と対極にある場所で好もしいです。

  • 昔の名義で呼ばれることへの嫌悪感はありますか

少し冷たい表現に感じるかもしれないけれど、あえて言うなら"呼びたい人は呼べばいい"と思っています。出会ったタイミングによって、その人にとって僕は「risou」かもしれないし「Sori Sawada」かもしれない。「澤田空海理」かもしれない。本名である「澤田空海理」に行き着いた以上、僕にとってはこれ以上になじみ深い名前はないし、自分にとって創作がより内向的、具体的になるにつれて本名以外を使う選択肢は無くなっていったわけだけど、それはあなたたちにとっては関係のないことだと言うのも判ります。慣れるまでは好きに呼んでください。僕は自分を「澤田空海理」だと自覚して曲を書いています。昔の名義のままなら今の曲は出ないと思います。なので我儘を言っていいなら、ゆっくり追いついてきてください。名義というものは不可逆なので、あの頃の誰かがあなたに曲を書くことはもうありません。しかし、それが強烈な思い出としてあなたを縛っているならそれも尊重したいです。いつか、昔の名義より「澤田空海理」の方が聞いてるな、と思ったら一度「澤田」でも「空海理」でも呼んでみてください。それで、しっくり来たら変えてみてください。嫌悪感はないですよ。あって違和感くらいです。

長々と失礼いたしました。やんわりと、それとなく言葉を返すのはかえって失礼な気がしたので、語勢が強い印象を受けられた方もいらっしゃるかもしれません。お気を悪くされた方がいらっしゃったらすみません。それでも真っすぐ受け止めてくれるであろうあなたたちへ書きました。

暖房をつける時間が日に日に短くなっていって、いよいよ春の匂いと気配が濃くなってきました。僕は春眠に入りますが、どうかあなた方は今年の春を楽しめますように。

2023/02/27 


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