ほんとうのことってなんだろう。

もうきっと忘れている人も多いだろうけれど今回の小山田圭吾の件について自分の中でなかなか整理がつかなくて書いては消してを繰り返しているうちにオリンピックも終わっていた。結局一試合も観ることはなかったなあ。開会式だけでも観とけばよかったか。あ、私オリンピックは好きでしたよこれまでは。


そもそも私は小沢健二が好きでそこからフリッパーズ・ギターを知り、どちらも自分にとって一生聴き続けるであろう音楽になった。しかし小山田圭吾に関しては正直そこまで興味が無くてコーネリアスも何曲かしか聴いたことがなかった。かっこいい音楽だなと思ったけれど積極的に聴くほど好みな訳ではなくて、今回オリンピックの開会式に関わっていると知った時も「意外だな」くらいの感想だったけれど、その後過去の雑誌の件で炎上し辞任することになる一連の状況に思うことがあったのでこれを書いている。


前提として過去に掲載されたインタビュー記事に書いてある事が事実であれば、その過去の行為は非難されても仕方がないし、オリンピックやパラリンピックに関わるべきでは無かったとも思う。ただしこの記事を元にしたツイートの拡散方法や正確性だとか、批判の内容についてすべて適切だったとはとても思えない。

あと、インタビュー記事の内容について最終的に責任を持つのは編集者側(出版社)だと思うんだけれど2社に対してはみなさん対応が甘くないですかね。どうなんですかね。


私が彼らの音楽に出会ったのは中学生くらいのことで、かなりの田舎だしまだネットも限られた人しか使っていなかったので情報を得るのは主にテレビか雑誌だったけど、あまり雑誌で彼らのインタビューを読んだ記憶がない。音楽そのものがあればそれ以外の情報はあまり必要無かったのかもしれない。その頃は「サブカル」なんて言葉も知らないし、彼らをお洒落だと思って聴いていたわけでもない。渋谷系とか興味無いし「渋谷系」にカテゴライズされる他のアーティストの曲も後から聴いてみたけど別に好きじゃなかった。私が「オリーブ少女」なわけもなかったし、むしろ「オタク」の方が近かっただろう。


「サブカル」は「いじめっ子気質」で「オタク」は「いじめられっ子気質」とか言うツイートも見かけた。なんとなく言いたいことは分かる。そういう人も多かったんだろうなと。ただやっぱりその区分けはあまりにも乱暴すぎるしただ単に前から気に食わなかった対象が炎上したのを見て「ほらみたことか」と言いたいだけにも思えてしまう。あらゆるものをカテゴライズして「加害者」「被害者」と単純化してしまうのはシンプルで理解しやすく納得もしやすくて共感も得られやすいよね。次はなんだろう「体育会系」と「文化系」さてどちらが「いじめっ子気質」だろうか?


確か「泣いちゃう」の配信だったと思うのだけど小沢健二が「物事を複雑なまま捉えて考えることはとても大変で疲れる」といったような内容を話していた(メモしてないから違ってたらごめんなさい)ほんとうにそうだよなと最近つくづく思う。


程度の違いはあれど過去にまったく後ろめたいことが無い人を好きになるなんてことは難しい。そして好きな人がこれからも絶対に不祥事を起こさないなんてことも約束はされていない。自分の好きな人達は絶対に間違いを犯さないなんて考えているのだろうか。そりゃ私だってそう思いたいけどさ。


批判するなと言っているわけじゃない。ただ、過去にその人のした行為ではなく現在の人格や人生を強い言葉で否定する資格は私たちにあるのだろうか。少なくとも本当にその情報が正しいのかどうか一度立ち止まって考えて欲しい。現在のその人がどういう人間なのかも私たちに知る由もないのに憶測だけで人格否定をすることなんか出来るのだろうかと個人的には思うけれど。私だってあの記事を読んでとても不快だった。だけど、インタビューでどこまで本当のことを話しているかは分からない。本人の謝罪文でクラスメイトを傷つけた事実は認めているが、記事の内容には誤りや誇張もあると言っている。可能であれば真実はどうであったのかを知りたいけれど、いじめられていた当事者の方のことを考えるとこれ以上この件に触れていいのかどうかも分からない。本人から真実がどうだったのか、これまでの人生でこのことをどのように考えて来たのか、時が来たら聞いてみたい。それが報道される際にはどうか被害にあった人たちができるだけ傷つかないよう配慮して欲しい。


もしもこれが自分のまったく知らないアーティストだったとしたら、私はどんな反応を示しただろうか、とも考える。職場でみんなと一緒になって「最悪だよね、信じられない。二度とテレビに出ないで欲しい」なんて言っていたかもしれないね。そしてすぐに忘れてしまう。だから今回の件で彼のことをよく知らないけど許せない消えてほしいと言った人たちをそんなに責める気にはなれない。そんなもんだろう。


いやね、私だって別にコーネリアスのファンな訳では無かったから「ふざけんなマジでなんでそんなことしてたんだよ!!」って怒ってさよならすることも出来たと思うんだけどさ。でもね、気づいちゃったんですよね。私この人の歌声ずっと聴いてきたじゃんって。フリッパーズギターで小山田圭吾の作った曲と歌声、人生の半分以上ともに過ごしてきちゃったんだもんね。もう家族とか友達とかそういう感じ。大切な家族や友達が過ちを犯してしまったからって簡単に見捨てられないし、反省して贖罪を続けるのであれば、何か力になりたいし見守りたいと思うじゃんね。まあもちろんこれは私の勝手な思いであって、小山田さんからしたら君は誰?って話なのでスタンスとか観念の話ですが。


フリッパーズ・ギターの音楽を、小山田圭吾の歌う歌を何度も何度も繰り返し聴いてきたし、これからも聴き続ける人間として。過去に過ちを犯したことのある人間として。自戒の意味も込めて考え続けたいなと。難しいですけどね、色々。


なんか言いたいことがたくさんあってよく分からない文章になってきたのでこの辺でいったん終わりにします。思慮が足りないところも多々あると思うんですが、この1ヶ月毎日考えていたことのほんの一部です。最後まで読んでくださった方がいたならありがとうございます。


1/4追記 最初はタイトル「さよならなんて云えないよ」で公開していたんだけどなんか小沢さんの曲と変に絡めるのも違うかなぁと思って今のタイトルに変更しました。





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