おだやかにとんがること

境界線パーソナリティとか、発達障害とかHSP とかの本は結構目を通した。
読めば読むほど全てにどこかこっかひっかかっていることに気づく。
周囲を見回しても引っかからない人はいるのかしらとおもうほどで、もはやもう占いと同程度のフィルターなのじゃないかしら。
性格判定、あっちとこっちの境界線といろんな基準線がある。
だけどそれはどこにも存在していなくてあっちとこっちをきめるのは自分の決断とか思考次第であったり、周囲のひとが勝手にひいている線だ。
目に見えたら越えちゃダメってわかるのに、見えないから手に負えない。
どこかな、ここかな、うっかりしていると越えてしまっている。うっかりしていると線を勝手に引いてしまっている。
うっかり線が生まれて、それに賛同する人が現れて、みえない線をあるかのようにささやきだす。そして、大きな声になっていく。
世界をつくるのはせんをかくことなのかもしれない。あちらとこちらを分け隔てて、わかるようにする。

クレヨンやペンで線を描く。線を描く時は線をかくという心地よさをただ味わっている。わたしの代わりにまっしろな紙の上でペンが自動でうごいていく。そこに余計な思考はない。ぶつからないように、白い空間を埋めていく。行き先がみつからなくなったら今度は線をこえていく。ぐるぐると、ぶつかりながら、まわりながらとんだりはねたり。線だけでもいろんな線があって、おなじものはひとつとしてない。ひとつのものを味わい尽くすこと。
ひとつのものに向き合い続けるということ。そういうことができるといいなと思う。そのけいけんは、いろんなものの表面を捲り続けることとはちがった深さを与えてくれる。

バブル時代だったこどものころ、お店をやっているわたしのお家には仕入れ先から大量のお中元やお歳暮が届いた。いくつもとどく包装紙の中身はなんだろうとわくわくしながらわたしはその包装紙を剥がす。マドレーヌにゴーフレット、水羊羹にカステラ。蟹缶にまぐろ。今はもうそんなに贈り物をする文化がなくなってきているのだけど、あの時のワクワクに少しだけ似ている。開けるまえの心地よさ。あけたあとの満足感となにがでてきても最高に満足するということはないということ。

中身をつくれるひとになりたかったし、なりたいのだ。
これから生きていく中で、どうなるかはわからないけれども、自分の何かを探ることだったり深く潜ることをただたのしめるように、生きていきたい。
苦しむとか悲しみとか、悲壮感を溢れさせるのとは違う。森の中にある池の水面の奥にもぐるように、優しく、深く、穏やかにたもちつつ、とんがっていきたい。

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