宇宙と海の狭間紀行
全国ワンマンツアー2022「TOKYO」 東京公演 Zepp Haneda
瞬く間に目前のパンケーキが消えた時、ふと我に返った。まるで、皿の中心に印字されているみたいに、“今日はライブだ”という実感が湧いてくる。味わう余裕もないほどに飢えていたのかと思うと切なくなった。店内を見渡すと、春を待つ蕾のように身を寄せ合ってあたたまる仲間の姿が見える。両隣で談笑する友の声を遠く聴きながら、覚悟が固まっていくのを感じた。
口数が増えるのも身振りが大きくなるのも、緊張と不安の震えを隠すポーズだ。黙ってじっと待っていたら、きっと壊れてしまう。「楽しみだね」の裏に“怖くないよ”を何重にも貼り付ける。今日だって、何本ものラバーバンドで補強した手は震えている。あぁ、いっそのこと帰ってしまおうか。先刻、控えめに挨拶を交わした友人の笑顔を思い出しては安心に変える。振り返るたびに埋まっていく人の密度が、私をここに固定していく。時間をかけて、私の居場所が彫り出される。
暗転。現実世界の幕が切れる。自他の境界が曖昧になり、一つになった視線がスクリーンに向けられる。超特急で過去を走り抜けていく傍ら、各駅停車で乗り継いできたこれまでを振り返る。直向きに走る小さな箱は、同じ駅には決して停まらずひたすらに乗客を増やし列を伸ばしていく。止まることなどないと思っていた矢先の突然の赤信号は、まさしく私たちの行先を黒く染めたのだ。後戻りもできない。選択肢はない。道をつくる、それしかなかった。無我夢中で掴んだ細い糸が、活路への片道切符であることを切望していた当時の想いが蘇る。そして、その先の青信号が、求める先への道標のごとく灯る。飛ぶのだと悟った。上に伸びる一本線を追って、一筋の涙が頬をつたう 。何度も墜落を繰り返し、それでも空を目指した彼らは、いつの間にか屈強な飛行艇を創り上げていたのだ。雲のような煙を透かし、白い光が影を映す。朝がきた。
照らされる地平で、乗組員全員の顔を知る。「おはよう世界 Good Morning World」出航の挨拶を交わす。暗闇の中を手探りで進んだ先にあった空は、あの信号のように蒼かったのだと音が記憶に叩き込む。旅路を照らす南十字よりも輝く三つの星が、好う候を告げていた。
高貴ながらも暴力的なフレーズが、己を破れと説く。絢爛な舞台と我楽多の硝煙を纏った音が、拍動を駆りたてる。襟のフリルがその気品の表れのようで、恍惚りしてしまう。
搭乗中の注意事項を告げ終えると、先程の青信号が離陸の時を告げる。着実に上がる高度を刻むように、言葉がうたれる。手の動きに合わせて、欲望、感情、私たちを詰め込んだ箱が上昇していく。エレベーターガールのアナウンスが始まり地から足が離れた瞬間、浮遊間を縫って心許なさが覗く。一抹の不安を渇望でかき消し、蜘蛛の糸を掴む思いで必死に手を伸ばした。
迎え入れられた先は、シャンデリアの輝く大広間だ。一人一人を慈しむような一声から、歓迎パーティが始まる。コロコロ変わる表情、声色。忙しなく動く視線。でも私の視線はずっと釘付けだ。この想いが少しでも届くように、完璧なリズムでcrap!crap! その褒め言葉は私に向けられたものだって、自惚れてもいいですか。
何者も拒絶しないのに冷たく響くこの曲が怖い。暗闇の中から粛々と始まった時間に、私は置いて行かれてしまった。逆光の中、見えない顔。無心に振られる腕。一本、また一本と幾多もの腕が吊り上げられていく。白に包まれた黒い影に、精一杯の抵抗で両腕を抱き締めた。光に照らされてまるで神みたいだ。
紙一重はごく簡単にひっくり返る。「 唱え奉れ! 」掲げられた印は、誰をも迎え入れる来迎印でも誰一人も落とさない摂取不捨印でも、ただのマネーサインでもなんでもいい。従順こそが評価に値するのならば、絶対服従しようと思った。神は拝するのみ。にこやかに捲し立て、圧で操るその説法に皆が心酔している。客席に向けられた背中を観た瞬間、これがパフォーマンスだと分かっていても悲しみが込み上げた。向き合って気持ちを通わし合うあの時間がどれほど尊いものだったのか、皮肉にも奪われて改めて思い知らされた。
照明が灯り、こちらを向いた三人の姿が見えた時、どれほど安心したことか。先程までの空気が嘘みたいに、和やかさに包まれる。いつかの学校の教室のような、わちゃわちゃという形容がふさわしいこの空気が大好きだ。
ハンドマイクを手に取り身軽になったその体が、一歩踏み出した瞬間に指先まで可憐に変わる。仕草一つ一つから弾けた星が舞う。ずっとこの曲を生で聞きたくて、何度も脳内でシミュレーションしたから振り付けは完璧だ。いや、本当のことならペンライトも欲しかった。他の曲よりも笑顔が多いように感じる。縦横無尽にステージを飛び回る姿を一心不乱に追うこの瞬間が、生きているって感じがして、楽しくて楽しくてほっぺが痛い。溌溂と大手を振る姿を忘れられない。
MCから次曲を察して、尻込みした。始まってもいないのに足が竦んで、呼吸が浅くなっていく。ライブで聴きたくなかった曲。“詩は、根源なる傷口から流れた血である。”大学の講義内での言葉通り、この歌詞はあまりにも詩でありまだ温かさを湛えた血だ。染み出し流れ込み、私の傷をも抉っていく。互いの血中に刻まれた痛み苦しみ悲しみが交じり合った時、堪え切れない涙が嗚咽と共に溢れる。その雫の音が、届いただろうか。同じ講義内では、“作品には透かしで宛名が書かれている。”という言葉もあった。私の名も、隣にいる友の名も、彼らを思う皆の名も、きっとそこに書かれている。血で書かれた70億人の名前の隙間からなお余る光が漏れて、意気地なく情けない、この歌を前にして顔も上げられない私を包み込む。とめどなく湧きあがる感情を叫ぶこともできずに、乾いたら消えてしまう涙に変わっていくことが悔しい。
まばらな拍手の中、引き攣る呼吸を整えることに必死だった私は、促されるまま席に崩れた。この静けさは、これから降り出す雪の予感かもしれない。チラチラと風花が舞い出し、音にこもる熱に比例して嵩を増す。雪煙は濃度を上げ、まるで薄い幕を隔てるように彼らが霞んでいく。朗々と歌う声を聴きながら、近づく別れの時間を予感して冷えていく指先を、胸元で硬く結んだ拳の中に隠した。
その拳を打ち上げてはじまるクライマックス。腹の奥底に響く音が、まだ残る蟠りを全部吐き出せと煽る。不敵に口角を上げてはるか後方を見据えたぎらつく瞳に、吹雪にも負けぬ明い炎が見えた気がして、私の中の興奮が再度点火される。その時にやっと、“ライブ”を思い出した。重い足も軋む肩も無視して、火照る体ごとこの時間に飛び込む。痛みと苦しみさえ、ここでは快感になる。
吹雪が止み晴れわたる銀世界。こぶしが花開き、てのひらが咲いていく。春を告げるこの曲を私はずっと待ち望んでいた。風を受けているかのように翻る声。照明の下、散る汗は爽快の象徴として煌めく。追い風か向かい風かの区別は付かなくとも、こみ上げる推進力が確かに伝わってくる。喜びと感動でまた視界が滲むけれど、いま目の前に広がるこの世界を見逃したくなくて、手の甲で乱暴に涙を拭い俯くことはしなかった。笑顔が溢れて仕方がなかった。
スポットライトに照らされ拳を掲げた姿は、何時みても凛々しくて、その細い体からは想像もできないほどの力がみなぎっている。どれだけ遠く離れていても、硬く結ばれ骨張った手だけは鮮明に見える。サビの張り上げられるギリギリの音、絶叫にも似たその声が好きだ。弾む拍手が揃う。友人と目が合って、言葉が消えた。全て伝わった。みんな、喜びに包まれていた。
「 飛べ 」それを合図に広げられた両翼が羽ばたく。その浮力には、もう先ほど感じた不安はない。高く空を舞うこの曲で、私は彼らを見つけたのだ。各々の内に火が灯り、気球のように素直に上昇していく。「歌って、聞こえるから」信頼の証である一言に胸が詰まる。ちゃんとわかっていた。無音の大合唱が増幅し、鼓膜を肌を圧して体内に交じり込む。ひとつになる。言葉にできない思いが身体を引き裂いて、会場に充満した。破裂寸前まで膨張したZepp Hanedaは、ふわりと宙に浮いた。
ファルセットが天を衝くと、ミラーボールから放射状に光が伸びる。各々の胸を貫き、誰一人残すことなく光が届けられる。 “光あれ” 語られなくともその言葉を感じた。始まれば終わる。出会えば別れる。無常の世界が眼下へと遠ざかっていく。音が妖精の魔法の粉で装飾されているようで、脳細胞を刺激し意識を朦朧とさせる。トルク音とともに今日のことが、走馬灯のように、巻き戻されるフィルムのように遡っていく。「さよなら この世界を目に焼き付けていくよ」私たちで描いたこの景色は、この世界は、いつまた会えるかもわからない別れの最後の記憶にふさわしかっただろうか。なす術なく唇を震わせ、また落ちる涙。目映い一閃で限界まで膨れた風船は弾け、彼らは静かに霞の中に消えていってしまった。
アンコールの拍手の中、私は虚脱感に打ちひしがれていた。もう二度と、彼らはステージに上がってこないのではないかとさえ考えていた。そう感じてしまうほど、完璧な終幕だった。これ以上何かを望むのは烏滸がましいとは思いつつ、点じきらない客席の照明同様に、僅かな期待を抱いて手を叩く。もどかしさが募れば募るほど、拍子が狂う。整っては崩れ、整っては崩れ……。最高潮に達した淀みは、伝播し寄せては返す波となった。深海へ、誕生の場所へと沈んでいく。
波打ち際ではしゃぐかのように、二人の青年が駆け出てくる。母なる海に抱かれた童心の瑞々しさは、海底の水圧を物ともしない。韻律からくる己の内を弄られ整合的に解体される感覚は、どこか細胞分裂を繰り返していた胎内の記憶に似ている。壮大な水を前に昂揚と戦慄がない混ぜになるけれど、そこには確かに青春が宿っていた。“あお”の涯にはなにがあるのだろう。好奇心に突き動かされ、笑い合い、手を差し伸べ合いながら飛び回るその場所は、舞台から遊び場へと変貌を遂げる。胸の奥が酷く辛く締め付けられ、呼吸が難しい。水面に水滴が落ちて波紋が広がる穏やかな余韻は、誕生前夜の輝きを反射していた。
明るさを取り戻すと、束の間夢から覚める。感謝を伝えアンコールに応える満面の笑みに、微かにあどけなさを垣間見た。流暢な流れでグッズ紹介へと進んでいったことは朧げな記憶として残っているけれど、レポートを書く身としてはあるまじきことに詳細がすっぽりと抜けている。ただ、幸福の塊の感触だけが鮮明だ。
その幸福の中を羊水さながらに揺蕩っていると、どこからか光が差す。細胞に火を、肺に空気を、血汗を滴らせ地上に這い出す。「ヒカリアレ」言葉にならずとも、私たちが生まれ最初に叫んだ言葉。命という重い十字架を背負いながら、狭く暗い道をゆく。最果ての楽園を目指して。ヒカリアレ、ひかりあれ、光あれ。何度も叫ばれるその言葉は、優しい言葉じゃない。胸ぐらを掴み揺さぶるかのごとき剣幕でぶつけられる、迫真の祈りだ。ふいごのように風を送り火を焚きつけ、押し付けられた×印と喰い込む荊から逃れさせてはくれない。業火となった炎が、絡み付く蔦を焼き切り火傷の痕が新たに覆い隠すまで。苦悶の表情から放たれる最大光量が、灯台のごとく滑走路を照らす。
少し駆け足なギターが、名残惜しさを断ち切り遠のいていく。光の充満する夏。飛行機、空港、東京。誂えたようなキーワードが、伏線を回収し飛び立った。BURNOUT SYNDROMESと私たちは、別れ方も知らずに愛し合っている。夢を選んで遥かな場所へ離れようと、この愛は手放せやしない。「気圧差で音の消えた世界 荒れ狂う鼓動が埋め尽くした 東京」長い物語の最終行。無音の更地に太陽と群青で、己の鼓動で、熊谷和海の鼓動で描かれた「TOKYO」
瞬く間に退場し寒空の下に立った時、ふと我に返った。まるで、タラップを降りるように、ふわふわと足を踏み出す。吹き荒ぶ潮風も気にならないほど、温もりに満ちていた。周囲を見回すと、光を宿し自分の道を歩いていく仲間の姿が見える。両隣で談笑する友の声に耳を傾け、私の見た世界を語り出す。閉じた瞼の裏には、青いZepp Hanedaの文字が印字されている。
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