良い意味で「遠い」ということ。

もっとメルマガを読んでもらうにはどうしたらいいんだろう、という問いがあった。

企業の話ではない。バンドの話だ。
企業メルマガはここでは横に置いておく。


メルマガは付加サービスだ。

他の人がメルマガ登録をするタイミングや、
メルマガ登録する、という行動に至る興味の度合いや、
メルマガに何を求めているか、
なんていうことは知ったことではないけれど、
僕にとってはあくまでもサービスパーツだ。

メルマガの立ち位置というか、付加価値というか、
その話を考えるにはまず、基盤となる情報源のことを考えなければならないと思う。
メルマガ、は情報源だけど、あくまでも
付属的なものでしょう。
だから、読んでもらうためには、って話も出てくるんだ。

私は言わずもがなofficiai HPに重きを置いている。
近年、HPを持たずにSNSのみを稼働させているバンドもちらほら見かけるけれども、
それはあまり好ましい話ではないと思う。

情報が流れていってしまわないよう、定期botを活用しているところはあるけれど、
140文字では足りない部分だってあるのだ。
and more…で終わらせて欲しくない。
詳細はこちら、とHPのURLを載せるならやっぱりTwitterは付加要素であって純粋な情報源にはなり得ないんだ。
あくまでも、ヒント、というか、とっかかりでしかない。

凝ったデザインで作れ、なんて言わない。
デザインはバンドの世界観や曲イメージを目に見える形にすることかもしれないけれど、
欲しい情報に、簡単にたどり着ける機能性の方が僕にはずっとだいじだ。
無理ならブログ使えば、と思うけれど、
創作界隈の人が素人ながらに素敵HPを作成できるのだから、
結局はやるかやらないかだとも思う。

メルマガの話に戻るけれども、じゃあそこに何を求めているのだろう。

そもそもにして登録しているてバンドが片手におさまってしまう僕に何が語れるって話ではあるのだけれど、
来ているメルマガはきちんとぜんぶ読んでいる。

メルマガ会員のみの先行受付であったり、
驚くほどに長文であったり、
必ずメンバの一言が入っていたり、
いち早い情報解禁の他にメルマガだけの限定感が付与されている。
それを本人たちが意図的にしているかどうかは別として、
そういった一種のおまけ要素がメルマガ購読の一端ではあると思う。
まぁ、HPをチェックしない人にとっては単なる情報ツールなのかもしれないけれど。
(HPのアクセス数ってSNSの乱立によって低減したりしてるんだろうか…だとしたらメルマガが果たす役割も変わってきそうだけれど)

近年、LINEでメルマガ的な内容を送ってくるバンドもいると聴く。
確かにアンケートの欄にもIDを問う欄を何度か見かけた。
でも、僕はやっぱりメルマガが好きだな、と思う。
双方向性、というようなものを僕はメルマガに求めていないし、
それを求めていたとしても、
リリィノートが使っていた返信できるメルマガだって存在するのだ。

頭が固い、ということは重々承知している。
けれど、LINEでバンドの情報を送ってこられるのは何だか苦手だ。
ついったのDMに送られてくるのもちょっと引いたものな…。


極論であることは承知の上で思うのだけれど、
メルマガをちゃんと読んでもらういちばん手っ取り早い方法はTwitterをはじめとするSNSを辞めることなんじゃないかと思う。
情報を得る手段がHPとメルマガなら、
必然的にHPにアクセスする回数もメルマガを読む人も増えると思う。

積極的なワンアクションを入れなければならないことで、
もしかしたら見てくれる実数は大きく変動するのかもしれない。
けれど、そういった浮遊層とも言える人々を固着させるための方法は、
決してSNSなんかにはないと思うんだ。

あくまでも僕の話になるのだけれど、
とりあえずでフォローしたバンドのライブ情報が流れて来たところで、
フォロワーさんが好きなバンドのライブ情報をRTしてくれたところで、
時間を合わせて観に行こう、なんて思うことはほとんどない。
それどころか、意識の外側をするする流れていって、
え、今日ライブだったの?っていうことも少なくない。

まぁ、僕は試聴機で音源を買うようなタイプではないから、そうなのかもしれないけれど。
自分の肌で感じたものにしか興味がない、というか。
閉じている、というのはたぶんとてももったいないことなのだろうけれど、
SNSで視界を流れていく物事よりも、
自ら情報を求めにいく必死さを含んだ感情をだいじにしたい。

SNSを離れても追いかけていく人が固定ファンと呼ばれる層なのだと思うし、
そうではない、いわゆる浮遊層を固定化するにはどうしたらいいのか、というのは永遠のテーマであり、
その部分に於いてSNSは一部有用であるのだろう。
だからと言って、SNSばかりを強化しても意味はないと思ってはいるけれど。
それに先にも書いた通り、僕は自分の肌で感じたものに重きを置きたい。

少し話し外れるけれど、
僕は試聴機で音源を試聴してレジに持っていく、という経験がない。
かっこいいな、とは思ったりもするけれど、購買意欲には繋がらない。
ライブハウスで初めて観たバンドさんの音源をお迎えすることは多いのにね。
それもたぶん、熱を含んだ空気振動が鼓膜ではなく肌を刺激しているからなのだと思う。

何をきっかけにしてだったかは定かではないけれど、
以前読んだBARKS編集部コラムは体感として持っていたそれを言語的に説明してくれるものだった。
ライブハウスで出逢えるバンドの数なんて限られていて、
そもそもライブに通うほど好きなバンドの数がそう多くない僕は更なりなわけで、
それはたぶん、もったいないこと、なのだろうけれど、
時間は有限だから、今好きなもの、へその時間は注ぎたい。
それに、すべてはタイミングだから。
出逢うべき時に出逢うべきものと出逢ってると僕は信じたい。
音楽に限らず、ね。


話を戻すけれど、SNS活用によってファンとアーティストの距離感というものは変わったよね。
善し悪しへの意見は多々あるだろうけれど、
なんだか不自然に近く見えてしまうことがあって時々げんなりする。

ライブハウス以外ではファンレターでしか想いを返す術がなかったところから、
ブログのコメント欄やファンメ、メッセ、リプライ、と多種的になってきていて、
より個人的なやり取りになってきている、気がする。

今日も同じ世界に生きているのだ、ということが救いであったりもするから、
ライブを観にいける人ばかりではないから、
どうしているのかを知れるというのはやっぱりうれしい。
ブログであれTwitterであれ、生存確認、の意味合いが僕にはだいぶ大きかったりする。

ただ、近すぎないか?と思うんだ。
僕はバンドマンと言うのは職業の一種だと思っているし、
ほとんどのバンドが音楽だけで食べていく、なんていうのは無理で、
バイトをしながら赤字続きの中続けていってくれてることはわかってる。
嫌儲主義が叫ばれる中、
きちんとそういう話をしてくれるバンドマンが僕は好きだよ。
でも、バイトの話、をされるのはやっぱり違和感なんだ。

それは、バンドマンを職業の一種、だと思っているせいなのかもしれないけれど。
バンドマンとしての顔を持つ場所ではバンドマンで居て欲しい、のだと思う。
そこには、プライベートは持ち込まれないべきだ、と。

それこそ10年ほど前なんて、
音楽以外の仕事の話、なんてものをするのはタブーだった気がするのだけれど。
近年の若年層バンドさんはバイトだ夜勤だ何処で働いてるだってダダ漏れでいいのか?

音楽で食べていけるようになって欲しいなぁ、と思うし、
だから、音楽以外の仕事で生計を立てているのを、
そうしたツイートで眼にして更なる応援を募る戦略だとか言われたら、
それはそれで面白いな、と思わなくもないけれど、
そういうのとはまた違うんだよな。
だったら、嫌儲主義なんて気にしないできちんと収支の話もしてくれと。
そのタブー感を生かしておきながらバイトの話なんかするな、と。
思っちゃうんだな僕は!

ビジネスの話もマネジメントの話も、
バンドには必要な話でしょう。
売れること、が目的になってはいけないけれど、
売れること、が手段なら大いに結構だ。

続いていくため、には想いだけではどうにもならない。
動員や売り上げと言った眼に見える数字は、
大人、を動かすには必要不可欠で、
その結果、音が届く人が増えるなら、
音に触れられる時間が伸びるなら、
僕にとってそれはとても喜ばしいことだ。
だってそれは巡り巡って僕らの為だってことだろう?


少し話がずれたけれど、
これはバンドマンに限った話ではなくて、
教師に教師の顔を、
カリスマ美容師にカリスマ美容師の顔を、
夢の国のキャストにキャストの顔を、
医師に医師の顔を、
その職業にその職業の顔を求めるように、
バンドマンにバンドマンの顔を求めている、のだと思う。

オンとオフの境目が曖昧な分、
それを求められる時間が長くなるのはしんどいことだろう。
アーティストであるところの自分と一個人としての差異を埋めていくことで楽になれるかといったらそれも違うんだろう。
けれど、一線、は引いておくべきだと思う。

バンドマンとファンの間の一線、というものはたぶん誰もが考えていることだろうとは思うんだ。
これは、その話にも通ずる部分があるものだと思う。

親近感、というのも必要なのかもしれないけれど、
遠さ、というのも同時に必要なのだ。
近さ、なんてものはその音楽を聴いた時の、
ブログ等で思考に触れた時の、
同調や共振のような、精神的なもので十分で、
自分と同じレベルでの日常生活を知ることではないし、
またそれを見せることでもないと思う。
人間性が言動に現れるのだとしても、
生き方を示すことと今の生活を晒すことは違うことでしょう。

正解なんて、ない話だけれど。
近いことで導ける感情もあるし、
遠いことで求められることもある。
近さが引かれた線を消すわけではないし、
遠さが離れる理由になるわけでもない。
わかっている。
考え出すと、距離感、というのはやはり難しいものだ。
結局は人に依るのだろうし。


そういう意味でいうと、
sacraもリリィノートもAcitaも、
そういった生身の部分はほとんど話さず、
(sacraとリリィノートはビジネス的な話もしっかりしてくれるところも好きだ)
常にバンドマン、でいてくれるところがとても好きだと思うし、
だからこんなにも必死で追いかけているのかもしれないな、なんて思う。

良い意味で、遠い。

緊張しすぎだとか、緊張されるような存在じゃないとか、
彼らは言うけれど、
相対した時に緊張する存在でいて欲しい。
その緊張感は、距離感が連れてくる。

手が届かない、と思うこと。
でも確かに、そこにいてくれる、ということ。

親近感よりも、憧れが欲しい。
パブリックな名称は時に個を殺すけれど、
向けられた憧憬と自分をどうかイコールで結んで欲しい。
そんな事を、思う。


だらだら書いてきたけれど、終わりが見えないから此処で〆ます。
自分にとってバンドとの距離感というものがとてもだいじなのだな、と、
メルマガの話からどこがどうなってその結論に落ちついたんだ自分。笑
でもまぁ、昔からバンドマンにタメ口な人苦手だし、
いつまでも丁寧語で話してくれるバンドマンは好感を持てるし、
前にもブログに書いたけれど、
個であるよりも1であること、を僕は選びたいんだ。

心は、遠くならないで。
でも、物理的にはもっと、手の届かないところへ。

そうしていつか彼らが聖地に立つ日を、どうしたって夢に見る。

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