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「いただきます」

植物の命について語らず
「動物の命が可哀想だから」と言う理由で植物の命で代替されるのは間違っている。
所詮、ビジネスでしかないと思ってる。
僕たちが命を前にできることは
命を頂くことに対して「感謝すること」
それ以上もそれ以下もない。

常に、他の命の犠牲の上で自分が生かされていることをより意識して置くことで、自分の命だが自分だけの命では無い。ということに気がつく。

そして、ヴィーガンでありながら、革靴を履いている人、マウス実験の賜物で生まれた薬を使ってる人は、自らが表現する矛盾に気づいているのか?

「命を思う」というのは、「命を食べる」という一次的なものだけでなく、二次的、三次的な「目に見えない命も思うこと」

もちろん僕はガンジーでもなければ、高僧でもない。だからつい「感謝すること」を忘れてしまう。
これが「命を頂くこと」よりも罪なんだろう。。。

僕は、可哀想だから命を頂かない。というアプローチをしない。
可哀想だが、命を頂きその犠牲の上で自らの命があるということを自覚する。自覚し続ける。というアプローチをする。

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