吉森睦子 / Mutsuko YOSHIMORI

 
2015年からずっとモンスターを作り続けています。最初は、陶芸をしていたから、全部土を焼いて陶器で作っていました。だけれども、ニューヨークに展示に行く時に重たくて、これでは私がまいっちゃうと思って、それで発泡スチロールに変えました。そこからですね、別の素材でいいんだと思ったのは。

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これは「空に開く」ですね。だから口が開いてることもあるんだけど、本当は空からこっちの中のほうに、こう限りなく口を開いていくような、そういう感覚が出たらいいなぁと思って。下地になってるのが麦わら帽子で、麦わら帽子に土をでべちゃべちゃってね。

今の現実の世界の中からぽっかりと、例えば空を夜ポンと見上げると、いきなり宇宙なんだと思うじゃないですか。なんか、あれっと思って視点が変わる。そのポンと見上げたときの空間というか限りない感じを、あの中を覗いたときにできないかなぁと思って、それでやってみたんですよ。

吉森さんの作品に、身体性を感じます。例えば、空に入っていくとか、結構大きな口があったりとか、入れそうだとか、陶器のようなマテリアルであるとか、綿であるとか、それは陶芸をやっているからこその身体性なのですか? 

私は塚原に住んで20年になりまして、やっぱり周りがどうしても自然が多いもんですから、割と空気感みたいなものの中に自分の存在は消えちゃうんですよ。なので、どっちかって言うと自分の感覚の中心は、外側というか、それがあるかもしれないです。

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時々レンズ使ったりとかするんですけど、あの「ブラックホール」とかも。ブラックホールはね、たまたまなんですけど、空港から家に帰ってたんですよ。車を運転しながら、その時ラジオで、日本人がブラックホールを写真に撮りました、世界で初めてです、みたいなことが流れていて。1時間位かかる道中、ずっとどんなんだ、どんなんだと頭ん中でなっちゃって、家に帰った時は、すでにこのフォルムが頭の中で出来上がっていました。

何かわかんないものってすごく興味をそそられて、形がないものとか、想像してしまうというか、そういうものが多分大好きなんだと思うんですよ。それでですね、ついついそういうものをモチーフにしてると思います。

初めてモンスターを作ろうと思ったきっかけはなんですか? 

モンスターって聞いたときに、モンスターってこの5文字をですね。目の前にポンとモンスターって思った瞬間からモンスターになっちゃったんです。なんだろうな、なんか作り始めたんですよ。モンスターって聞いただけで、もう頭んなかモンスター!!キタキタってなるんですよ。

なんだろうなぁ、何か楽しいじゃないですか。なんかそうなるともうやるしかないです。

最初のモンスターは核のことを考えていたの。その頃、2011年に福島原発の事があって、核は見えないけど、この空気の中にいっぱいあると思ったら、急に太陽が歪んで見えたんですよ。
太陽が歪んでる、大変だと思って、そうゆう自分の普段の状況が、モンスターと聞いた時に直結するんですよ。

最初の作ったモンスターは陶器でしたけど、自分が作った要塞みたいのがあって、土をガンガン積み上げた上から、ぽっかりと白い丸いかわいいモンスターがこうやって出てきてるの、ぼっこりと、それが自分の中では核だったんですよ。でも見えないもんねホントは。

聞こえてる音だけが音じゃないとよく言うよね、周波数の上と下があって。だから、見えないからといって、無いわけじゃないんだよ、みたいな。それはすごく感じるんです。家の人が死んでからも特にそう思います。どこに行くんだろうって思うじゃないですか。あんたどこいったんって、あの星と星の間とか、まさかこんなところに、草むらとかね、いろいろ思うんですよ。けれどもそこにいるわけじゃないんだけど、でももしかしたら、私たちが作った自分たちの工房にずっといるんじゃないかなって思う時もあります。

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塚原に行く前と、塚原に行ってから作品は変わりましたか?
 
全然違うと思います。最初はね、ただただね、あまりに自然がすごいから、例えば雨降ったりとか、普通だったらアスファルトとか、街だったらアーケードがあったりとかして、あんまり雨降るの、そんなに雨と思わないじゃないですか? でももうずっしり雨なんですよ。例えば雷とか横にビビビとか行くんです。雪がこんなに降るの、みたいな、どえらいこともいっぱいあって。そして、野生の動物も出てくるし。雪の時なんて、もう二度と春に芽が出ないんじゃないかって言うくらい雪が深いけど、いつの間にか芽がその間からニョキと出てて、芽が出てる周りは、雪が溶けちゃってる、それは一体どういうことよと思うわけですよ。そんなんでまぁ最初の10年位過ぎました。おっかなびっくりしながら。

そこから陶芸のほうも少し慣れてきて、自分たちの窯焚きも思うようになってきて、10年ぐらい経って、やっと自分たちのが作れるかなっていう感じになりました. だからそこからですね。
 
街の中に住んでたら普通っていうか、同じ価値観というかね、みんな近い価値観になると思うんだけど、山にいるとちょっと価値観が少し変わってくるかなぁと思うんですよ。それはねーなんかなぁー言葉にはなかなかできなくて、あの信号がないことが素敵だなぁって後から思える、その時はうん、まぁ最初はわかんないですけどね、そういう感じかな。
 
塚原に行く前は、どのような作品を作っていたのですか?
 
あーそうですね、行く前は、器とかもちろん作ってたんですけど、例えばテーブルの上から粘土を落としたら、どんな形になるかなぁとか、そんなのやってたの。そうすると落としたらどっかが、ガツンて、ぺちゃんてなって、どっかがグニって立ち上がったりとか、それを一回やったのと、何回か繰り返したのと、どんどん形が変わっていくじゃないですか。そういう落下物の面白さを、極力手を加えずに、なんか皿っぽく焼こうみたいな。
 
あと、削るということにちょっと妙にこだわって。自分でもおかしいのだけれど、気になるところがそうゆうことなんですよ。土の塊があるじゃないですか。それを、とことん削ったらどうなるのかなと思って。普通はまあ、手で穴あけたりとか、ろくろしたりとかすればいいんだけど、これちょっと削ってみようと思って。好きなだけ削ろうと思って。どんどんどんどん削っていく。するとこっちが薄くなったりとか、ちょっと変に削ると、ここだけが薄くてここだけ分厚いとか、いろいろあるんですよ。そういうのを、違う道具で削ると、またちょっと違うとかね。そういうことをやって、ただ削るだけの作品とか。
 
それが楽しかったんですよ。毎度毎度、呆れられて周りの人から、ちょっと変なことやってるぞ、みたいな。ちょっとしらけた感じでね、でも割とほっといてもらえたんで、その陶芸教室は。すいません焼いてくださいって、はーいとか言って焼いてもらえてたんですよ。無意味な意味が好きで、自分にとってだけ意味があったんですよ。
 
それを考えると、さっきの、塚原の自然の中で自分の体が消える、みたいな経験を経て、すごく手を尽くしたものを、自分で形を作っていく方向に行くわけじゃないですか?
 
はい。あのそれ不思議でしょう。
 
それはさっき言ったみたいに、塚原に住んだからというだけなんでしょうか?
 
あのね、ある人から言われたの、あのハセオさんって、建築家のもう亡くなった方なんだけど。
車でその方を送って行ってたの、夜ね。そしたら「むっちゃん、今こうやってお話をしている事はもうきっとすぐ消えるんだよ。」って。「だけれども何かの方法で残しておけば、きっと残るよ。」って。

それはつまり、文章でもいいし、絵でもいいし、なんでもいいから、とにかく自分が今思ったことを、ほっとけば消えると。だけど、何かにすれば、残るんだよって。後から、あっそうだったって、自分もそうだし、誰かがそれを見たときに、あっそうかってわかる人がきっといるから、と言われたことがあって。結構酔っ払ってたんですその人。だけどすごいこと言ったと思って。
 
吉本隆明の本には、そのようなことに近いことが書いてあるよと。その本を買ったんですよ、私。ちょっと読んだんですけど、難しくて。書いてあることは、哲学的なことを平たく書いてあったと思うんですよね。だから、なるほどなと。
 
思った事はイメージだけでだと終わる。消える。残すべきなんやっていうのは、私はその時からなんとなく入ってきてます。何かその興味のあることを形にするとか、削るとか、落とすとかそういうことから、より思ったことを形にするじゃないけど。
 
メッセージ性というか、頭の中の残したい絵というか、図像を、より外に出すという方向にいったのですね。
 
そうですね。出しやすくなったんでしょうね。
若い頃とかは全然表現方法がわからなかったし。風倉さんの教室に行ってた時も、風倉さんがやってることを記録はできるんだけど、じゃあ、ギャラリーの人からね、「あなたは何をやってるんだ。」と聞かれても、「何もやってません。」とかって言うと、「だめじゃないの」みたいにね。ギャラリーの人から怒られるんだと思って。
 
若い頃は、それがなんで何もやってない事はいけないのかなあみたいな。そういう、でも自分はそこまでの手段を持ってないと思ってたの。どういう風にアウトプットしていいのかわからなかったんですよ。
すごくそれは、自分の中で長く続きました。でも何かがあるんだけど、どう出していいのかわからん。それでやっとこのごろです。出せるようになった。正直にいうとそう。遠慮する気持ちとかね、いろいろあって、概念的に囚われるとか。でも、囚われてるかもしれないけど、まぁそうかもしれないけどいいやって、思えるようになった。ちょっと年取ってきたせいもあるけど。恥ずかしくなくなったかもしれない。何もできない自分が。
 
例えば、この先どういうことをやりたいですか?
 
ずっと多分このまま。多分こんな調子で。
あれなんて、コロナの最初の頃作りました。銀色のやつ。あの手がこうなってるみたいな赤いやつ。あれはもうほんとにあのコロナが世界中蔓延して一体これどうなるんだと思って。きっときっと、自分は弱者ではないと思っている人もきっと弱者になるんだろうなって思ったり。
そう言いながら、全く別の世界が並行してあるかもしれないなと思ったり。いろんなことを思いましたから、それをなるべく自分の思ったことに近いようなことを作ろうと思って。
 
そういうことが、あのような形で頭の中に浮かぶのですか?


ああいう形をやろうとするんですよ、なんかわからないけど。目の前にあるいろんな素材を自分でチョイスしながら、これこうやったらこうならないかなぁみたいな。ずっと模索ですから。だから何かやろうと思った瞬間から旅が始まって、ずっといろんなものに巡り会って、素材に巡り会って、自分の最初に持ったイメージみたいな。
ほぼその時に自分のイメージできてるんですけど、だけどそれのイメージと出会った素材との、なんていうの、あーこれはいけるとか、これやってみようとか思えるっていうか、そのものをずっと選んで使ってます。毎回手法は違います。
 
うまくいかない場合もあるのですか?
 
あります。自分の心が浅い時、思いが浅い時。もうちょっとしっかり突っ込まなきゃだめだと思って、途中でこれもダメって言う時がたまにあります。やっぱ思い込み深くないと、私の場合は。どこまで思い込み深いかっていうの、どこまで突っ込んでいけるかみたいなところです。
 
このモンスターシリーズはしばらく続くのですか?
 
多分ね。モンスターって呼べるのかどうかもずっと本当はわかんないけど。でも多分自分の中でそのモンスターっていうところですごい決着がつくので、見えないものとか感じたものを形にしていこうなーと思ってます。
 
その見えないものがモンスターということですか?
 
そうね。
 
 
 

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