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[日記]多子世帯の大学無償化とムジナ

金曜〜土曜にかけては、なかなかに悩ましい週末でした。
多子世帯の大学無償化ニュースです。ちなみに我が家は大学受験中の子どもを抱えた一人っ子世帯です。
これまでも保育園無償化や子どもの医療費無料など、ほとんどの子育て支援策をすり抜けてきましたが、それでもこんな思いをしませんでした。

ところが今回は心を折られました。
あれ何でだろう、とモヤモヤしました。

格差固定へのやり切れなさと、一方での罪悪感

一つは、多子世帯の多くが(全部とは言わない)、「高所得」で「親の助けがある」という、限られた「恵まれた層」への優遇策というところでしょう。一方で「コチラ」は老後の資金も貯められないまま、子どもに奨学金という名の学生ローンを負わせてしまう。これは格差固定だとリアルに感じました。
(※1:ちなみに「恵まれた」とすると「子育て苦労マウント合戦」が勃発しやすいのですが、これについては後述します。)
(※2:またこの策を「少子化対策のインセンティブ」と主張するならば、そもそも「恵まれているかどうか」は関係ありませんね。私は「格差固定」を問題にしているので言及しましたが…)

もう一つは、罪悪感です。この政策の有効性が疑問なのではなく、単に「他の人が得することを許せない浅ましい心」から受け入れられないのではないかという自己疑念です。なので「反対」と言及すること自体も躊躇われ、人がどう思うかが気になり、恥ずかしくなりました。実際に「反対するのは心が狭い」と指摘するSNS投稿も多く、私が特にモヤモヤしていたのは、この2つ目のポイントでした。

政策自体の有効性については

なお今回深くは触れませんが、この政策自体の有効性自体も、もちろん論点です。私は、有効性は低いと考えています。少子化の原因は「少母化」という説に説得力を感じるからです。ここ数十年、子育て世帯自体の出産数は実は変化はなく、そもそも子どもが持てない人の増加が少子化の原因だという分析があります。
また「3人以上産め」と言う政策は、結局はその家族、特に母体に負担を強いる側面があります。多子世帯にも、そうでない世帯にも、「頑張り」という名の無理が生じやすい政策です。子どもを産んでくれそうな家族を人参で走らせるのではなく、もっと根本的に希望が持てる社会にすることが大切で、そこに手をつけない以上、これは場当たり的な弥縫策だと考えています。
ただしここは、今回の主題ではありません。

さて。

このモヤモヤは、何かが違う…そうかムジナか。


ずっと感じていたのは、「このモヤモヤは、何かが違う」という思いでした。
少し考えて気づいたのは、「不公平だ」と思う認識に「心が狭い」という自他の指摘が発生すること自体が「変」なのではないかということです。
もし「不公平と思うなんて、心が狭い」なら、その矛は「逆方向にも向くのではないか」ということです。

つまり無償化の対象にならず悲しんでいる子育て世帯に「自分のことしか考えていない」と言うならば、そんな矛を突きつける本人自身も「自分のことしか考えていない。大変な状態で苦しんでいる他者のことを考えていない」のではないかということです。

たまたま「得をする」人たちが、努力が報われずに悲しむ人たちを「心が狭い」というのは、それこそ心が狭いのではないかしら?広くみんなの幸せを考えるなら、一緒に憤る感情があって良いはずです。そういった心の働きがないのなら、それこそ「自分のことしか考えていないのでは?」

もし私が多子世帯だったら、ニュースに安堵すると同時に、やはり対象外への家族に対する申し訳なさを感じただろうと思います。そして実際に、多子世帯の方々からの、そういった感想も目にします。

ここまで考えて気づくのは、結局は同じ穴のムジナ。
飢えているところに食料が投下されたものだから、我先こそはと手を伸ばすのです。そもそもは食糧不足の穴に放り込まれていること自体が問題なのですが、「少子化」という錦の御旗がオトリの理由として括り付けられているので、その旗を奪い合うわけですね。

要は、子育て世代の分断に踊らされているんだということでした。
当事者同士を争わせて根本的な解決から目を逸らさせるというのは、為政者の古典的な手段でもありますが…。
これが、今回の「騒動」の正体ではないかなと。

今回の「騒動」の正体は

給付型奨学金の拡充、大学授業料の減額、若い世代の奨学金減免、そもそもの中間層〜低所得層への負担軽減。やれることは他にたくさんあるし、防衛費の増額分があれば、どれも十分可能でしょう。

子育て世代同士で子育ての大変さをマウント取り合うのではなく、その矛先を政府与党に向けるべき。そもそも子どもを持つ選択肢を持てない層も含めて、みんな一緒に助けろというべき。
「それは無理でしょう」などと訳知り仕草をせず、みんなにパンを寄越せと堂々と言うことが、今回の解答だろうと思います。

1子世帯、2子世帯が憤りを覚えたとしても、それは仕方がありません、その感情は自然です。
あ、嬉しい、頑張った甲斐があったと思った世帯の方々も、その気持ちも自然です。
どちらも自然な感情で、それ自体は問題ではないと思います。
そうやって感情を動かされてしまうほど、意識しているかいないかは別にして、それぞれ頑張っているということです。

そして私が割と実感しているのは、感情に逆らってもいいことがないということです。大切なのは振り回されないことで…まあ言うは易し行うは難しですが、ともかくも。

感情は「気づき」のためにあるのだろうと思います。
少なくとも感情の発生元を探ると何かしらの「気づき」があり、そこに目を向けると感情が、「ではではお役御免」とばかりに後ろに引いていく感覚を何回も体験しています。

幸福のために「頑張る」と「見返り」を求めてしまうので、その時点で幸福は遠ざかってしまうわけでして、幸せになるための頑張りは、誰にもさせてはいけないと思うのですよ。
だから今回モヤったエネルギーは、ストレートに、誰もが安心して暮らせる社会を求めることに向けるのが解じゃないかと。それが社会全体の幸福感アップにつながるわけだろうと思う週末です。

[日記:2024年12月10日]

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