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マルチレイヤー家族2030

こんにちは、空色せいらです。Vtuberとして自作の音楽を中心に動画を投稿しています。今回ははれのそらさんのお誘いで「2030年家族のかたち」をテーマに記事を書かせていただくことになりました。

資本主義型「家族」の限界

まず家族ってなんだろうと考えました。
今の段階では血縁によって構成された集団であると言えるでしょうし、この捉え方でまあ間違いはないのでしょうけど、それがナチュラルに信じられていた昭和の時代と令和の今では周りの環境が変わっていってしまって事情が複雑になっているように感じています。
中でも問題になるのは、核家族という概念です。

核家族─────両親と子供だけという、3人か4人程度の最小ユニットの家族は、それが出現する以前の家族のあり方、ひいては人間という生物の生態としても異常で不自然な形態だったことが次第に明らかになっていきました。ではなぜそんなものが数十年にわたって成立し得たのでしょう?そこにはそれを求めた存在がありました。それは、資本主義です。

大きな血縁集団を分割すると、家族というユニットの数は増えます。家族の数が増えると、生活必需品はその家族の分だけ必要になり、モノが余計に売れて企業が潤います。ゆえに企業は広告代理店を通じてイメージ戦略をしかけて旧来の家族のイメージを古臭いものとして核家族の生活がスタイリッシュであるかのように演出していきます。そのイメージを刷り込まれた人々はその記憶に基づいて自分たちの家庭生活を合わせていったのです。

家族を描いたアニメの人気作品の変遷を見ていくとわかりやすいですね。
複数の世代がひとつ屋根の下で暮らす「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」から一つの親子が基本単位の「クレヨンしんちゃん」への変化はじつに示唆に富むものだと思います。「サザエさん」は現在もアニメが続いてはいますが、あの家族構成にリアリティを感じている視聴者は多くはないでしょう。もはや一種のファンタジーなのです。
(もっとも「クレヨンしんちゃん」も日本経済の停滞の結果、野原ひろしがスーパーサラリーマンに見えるほど現実と乖離してきていて一種のファンタジーになっているとも聞きますが)

核家族は、経済がうまくいっている間は機能し続けました。まかないきれない部分をアウトソーシングしていくことで足りない部分を補えたのです。もちろんそれにもお金がかかるので資本主義的には万々歳です。ですがそれはお金を持っている人にしかできないことです。先述のようにアウトソーシングせねばまかないきれない部分があるということはその時点で人的リソースが不足しているので無理をしている状態なのですから。

なので次第にほころびが生じていきました。まず最も手間のかかる「育児」において母親の負担が増大し、さまざまな問題が発生していきます。
人間は群れで生活する動物でした。つまり子供を育てるにあたっても母親と父親二人だけで行っていたわけではないのです。その生態を無視してモノを売る側の都合だけで核家族なんてものをでっち上げたわけですから、押し付けた側は何も考えていません。
「それはそっちでなんとかして下さい。便利になりそうなモノはどんどん売ってあげますよ」としか言わないのです。(つまり悩みを解決するようなフリをしてさらにモノを売りつけることを考えている)

そして経済の低迷によって生活そのものが回っていかなくなる家族が増えていき、人類という種にとっても、国家にとっても、ひいてはその状況をしかけた資本主義にとってもマイナスとなる「人口の再生産が滞る」という事態にまで進みました。結婚出産育児のコストは増大を続け、少子化が進行し、結果モノが売れなくなっていったのです。資本主義そのものには意志はなくたくさんの人々の思惑によって方向性をつけられているだけなので誰のせいでもないのですがこれは大誤算でした。

こうして核家族という形態に限界が訪れたとわたしは考えています。
この状況の副産物として多くの「独り身の人々」が生み出されていきました。彼ら彼女らはバラバラになった家族からも切り離されて漂う、生活が成立し得ていない社会単位です。

ゆるいつながりを家族と呼べたら

若い世代の人々の間でシェアハウスが流行っていったのも、必然性のある成り行きだったのでしょう。そもそも独り暮らしを推奨する傾向もまた、資本主義の要求によって生み出されたイメージですが、現実に生活が立ち行かないのですから生きていくために群れをつくるという、ある意味本能に根ざした回帰だと考えられます。
わたしも過去にシェアハウス暮らしを体験していますが、同じ空間に暮らすだけでそれまで面識のなかった者同士でも次第に家族のような感覚で馴染んでいきました。なのでちょっとした疑似家族的な集団になりうると思います。やはり人間は群れで生きる動物なのですねw

そしてインターネットがそれらの擬似的家族同士をつなげていく流れを作り出しました。リバ邸ギークハウスプロジェクトなどはそういった試みの先駆的なものです。いくつもの拠点をつないだ総体は、ちょっとした大家族でしょう。ちょっとサマーウォーズっぽいかもしれませんね。

そして住む場所が同じでなくとも、バーチャルに集まれる場所の共有が同じ感覚を生み出せる、とわたしはここ最近の体験によって確信を深めています。個人の感覚による視点での話になるので共感されるかどうかは自信が持てませんが話を続けていきます。

SNSの普及した現在、わたしたちは誰かの生活の一部を共有しあっているといえます。自分から「見せても大丈夫な範囲のプライバシー」を切り取ってネットに上げて見せあっているのです。改めて文章で書き出してみると不思議な行為ですよねこれって。
今の10代の人たちは生まれた頃からネットがあって当たり前ですから、その気になれば全ライフログをネットから掘り出せるのでしょう。

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それを継続的に見ている側は、次第に家族あるいは遠方の親戚くらいの感覚になっていくようです。

この感覚での「ゆるいつながり」もまた疑似家族、いやバーチャル(本質としての)家族と呼んでもよいのではないかと考えています。

この二年ほどぬいぐるみパパの呼びかけで集まったバーチャル界隈の面々と過ごしてきて、メンバーとはなんとなく家族的な親近感を覚えています。
それはぬいぐるみパパが意図的に「家族」というキーワードを使ってきたからでもあるだろうし、Discordで集まって雑談をしてきたことで心理的距離が狭まったことも重要でした。また、実際に助け合い、悩みを打ち明け相談していくことでお互いを知ることもひとつの要因でしょう。血縁関係の家族とは疎遠になったわたしにとってはこのメンバーは新しい家族です。

もうひとつ、Vtuberを始めてからできた家族は、わたしがリーダーをつとめるグループ「PoisonLily」です。TwitterのDMグループでつながった4人は日々日常を共有しあい、楽しく過ごしています。当初はアイドルグループを作ろうという目的がありましたが、今ではそれはどうでもよくなってむしろ「お互いが消えないために身を寄せ合う」つながりになっています。

それって家族じゃないでしょうか?

このように、一人の人間が複数の家族的つながりに属し、場合によってはその重複点たる個人を起点に家族同士が一回り大きなつながりとなる、そんな
「多層的家族」という形がこの先の人の生きやすさを作っていけるのではないか、という予感がしているのです。

血縁によって構成される家族ももちろん続いていくでしょうけれども、一度作られた価値観はそれを持つ世代が生きている限り、変わってしまった流れをもとに戻すのはほぼ不可能だと思います。ですが新たに作っていく流れにかつての価値観の良い点を盛り込んでいくことは不可能ではないでしょう。

わたしはそういう未来を夢見ています。

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