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応募作品③『みつける、気づく、閃く』

※これは、八幡市教育委員会、 第3回「徒然人よ筆をとれ」2019年8月に応募したものです。NOTEに掲載するにあたり気がついた分については、多少修正や加筆しております。 

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『 みつける、気づく、閃く 』

 私はいつの頃からか、日々の暮らしの中で〝気づく〟ことが日課となりつつある。それは、おそらく30代の頃にふと自身の老後を考えた時、仲の良い友だちといつまでも変わることなく会えるのだろうか?といったことを考えたことから、それまで1人行動ができずにいた自身の将来を安じたことがきっかけとなった。
 それから1人行動を練習し、できるだけお金がかからず、場所・時間に縛られることのない趣味を増やしたりしておこうと模索してきたことが今現在の私に繋がっているのかもしれない。結果的に、心身がおかしくなり2ヶ月の入院から数年自宅療養となった時、それらがとても役に立った。そして、再び、心身の不調が悪化した時、更にそれを実感することとなった。今年にはいってから、今まで一度もやったことのない清掃の仕事に就いたことで、更にそれらは昇華されていく日々となっている。
 実は掃除は私の一番苦手とする分野だ。でも、この仕事を始めて、良い意味でも悪い意味でも〝気づく〟ことが多く、驚いている。それに加え、これまでに私なりに悟ってきたことが、更に書き換えて更新されていく毎日だ。そして、自身がなぜ掃除に限らず整理整頓が苦手だったのかということが至極単純なことが原因だったこともわかった。それは、物量に対し整理整頓する場所が必要で、常にそのスペースは余裕がある状態であったほうが片付きやすいことは気づいていたのだが、現職に就いたことから改めてそれらを確信すこととなった。と同時に、部屋の構造が私の特性状向いてなかったということにも気づかされた。これは、今後引っ越しすることがあればそれらを考慮した物件に住みたいと思っている。
 清掃をする中で一番いろいろな思考を廻らせることになっているのが、実は〝トイレ掃除〟だ。それらから得た〝気付き〟は、掃除をするという意味に限らず、その部屋の人の身体的な状況像の手がかりになりうるということも日々実感することとなっている。そして、自己啓発系のセミナーや教えのようなことを否定するつもりはないが、それらで得た〝トイレ事情〟が払拭又は自身の中で解体・構築された。しかも、それもものすごく単純なことだったので自分で思わず笑ってしまったほどだ。
 何故私が、先人の〝トイレ掃除の教え〟を行ってもお金持ちになれなかったのかの謎もわかった。結局、先人たちが伝えたかったことはその言葉の物事だけでもなかったのだなぁと現時点の私は捉えている。
 行動することは大切なことだと思うが、それだけでは変えられないことはあるように思う。じゃあ一体なぜ、先人の教えを守っても一個人の私の場合には物事が変わっていかなかったのか? といったことが不思議でならずモヤモヤしてはいた。でも、実は、そこからの一人問答が人それぞれにとって大切なのではないかと思うこととなった。そして、忘れてはいけないのは、先人と人格や価値観がまず違うということに踏まえ、それまでの生きてきた環境の違いは大きいということは忘れてはいけない事だと思う。だからこそ、自分という人物がどういった人なのか良い意味でも悪い意味でも自己受容できているかはポイントで〝教えに沿えばいい〟といったことは自身の知識にはなりえたとしても、血肉にはなっていかないのかもしれないとも思う。
 とどのつまり、〝発見する(みつける)〟ことは、ヒントがあれば案外容易いと思う。そして、その後の〝気づき〟やそれらの過程は多種多様となる。一人として全く同じではないと思うからこそ、それらを踏まえた上での〝閃き〟が起こる人もいるだろうと思うし、それにもいたらない人もいると思う。でも、それらが自身の身の上で起こる必要がなくても〝大丈夫〟だということも付け加えておきたい。 行動を起こしてもそれが〝実を結ばない人〟は必ず存在すると思う。 ただ、そういった人は、もうすでに自身には必要もなく〝大丈夫〟だったということに気づけば良いだけかもしれないからだ。それくらい、人の生き方の方向性や価値観は違っていいし〝違ってもいい〟ことがわかれば、たとえ今現在不自由を感じていても、その枠の中で自身の感じられる物事に折り合いがつき、少しは楽になるんじゃなかろうかと思ったりもする。
 私は今、世間一般でいわれる底辺といわれる生活保護世帯でもある。確かに不便だし不自由さを感じてはいるが、不幸だとは思っていない。それは、掃除を得てこれまでに得ていた〝気づき〟が昇華したことが大きいのかもしれない。他者との幸せの価値観も方向性も〝みんな一緒がみんないい〟といった概念を捨てられたことは私にとってとつもない財産になったように思っている。それと〝共に永久に〟という言葉は、ある意味一個人の人生を縛ってしまうお呪いにもなりうるように思う。そういった言葉の呪文から解放されるには〝自分次第〟だったということも付け加えて締めくくりたい。

20190827応募

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