6.恋人のカード

2012年の松村潔先生の音声ファイルを参考にしています。

バニングの引用:他者との結びつき、セクシュアリティー、自分への信頼を確立すること、愛と性、一つの関係性の中での引き寄せ

高次と低次の間でどちらかに選らばなくてはならない。

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6角形、ひとつの三角形にもうひとつの三角形が向かい合って、呼応している。

5の数字は単独性をあらわす。じぶんのかたちを変えることなく増殖していく。拡大していく。

6の数字は2の3倍だから5の数字のひとりで拡大するのではなく、相手というものが存在して、環境という場合もある、相手に合わせるのではなく 自分も相手も鏡のように相対的に変化していく。結びついてしまうと自分は相手に合わせて自分が変わってしまうし、相手も自分に合わせて相手も変わってしまうので、たがいにサイズが同じようになっていく。5の数字はどんどん拡大していく、6の数字に入ると相手が小さければ自分も委縮して小さくなっていく。環境にあわせる。

占星術では6番目の乙女座、6ハウスに関連。要求されたことに応える。6ハウスは仕事。律儀な状態、自分をどんどんひろげていく5の数字と比べると苦しい、妥協するとか合わせるとかになってきやすい。偶数なので、相対的な呼び合う関係性が出来上がってしまうとここから逃れることができなくなる。相対性が働く、柔軟、相手次第で変化していく偶数の性質。選択するのは奇数の性質、右か左かで一本化されていく。

どれかを選ぶということよりも結合を重視。6の数字の抑止がなければ5の数字は果てしなく増長していくので、結合することで暴走を防ぐ。

ふたつの3角形が結びついた6角形はそれ自体に閉鎖的に働いている、閉じて安全な感じに収まっていく、道を男女ふたりで歩いていると男性ひとりより安全な感じがする、噛みつく感じがしない。

ある種の衝動をもう片方の三角形が吸収する。

フッサールの意識は射出で成り立つ、という発想で考えると、三角形のそれぞれが能動的に働いた場合、受止め手というか反射する素材がそれぞれの三角形の3点にありますよと考える。6角形の対角線の直線、180度側、そこの部分に反射する要素があって、なにを出してきても受け手の三角形が全部収集してしまう。影響が外に飛び火しない。

生命の樹のパスで考えると、右上のビナーの母親的な部分から人間の胸の中心のティファレトに降りてくる、右上から真ん中に降りてくるのが恋人のカードのパス、運命の門である特定の運命にその人が入っていく。もともとビナーっていう母親的原理は下の方のマルクトを作る原因、下に降りていく衝動をあらわす。宇宙の形成力の根源、いろんな形のあるものがここから作られていく。宇宙の生命力。それに対して左のコクマーはかたちをなくしていく方向に向かう陽の極の中枢。

胸の中心のティファレトから陽の極、左上のコクマーに上がっていくのが皇帝のカード、守護天使の門、開放の門、

左側の陽の極のコクマーが陰の極のビナーが結合したところが女帝のカード、そこでいろんなものが生み出される、女帝のカードの創造的作用は、7段階進むことで物質的なものが生産される。能動原理と受動原理が結びつくと真ん中に子どもが生まれる。この子供がまた父親になって受動原理を見つけ出してきて、また中和の子どもが生まれる。その子供が成長してやがて父親になって受動原理を見つけ出してきて真ん中に子どもが生まれる。このプロセスを7回繰り返す。

7回繰り返すことでどんどん創造的なプロセスが物質化される。金属とか鉱物の触れる硬い世界にまで創造の働きが進んでいく。このプロセス全部がビナーの腹の中で進む、生まれてきたものはビナーの外に出る事は無い。生命の樹のコスモスそのものはビナーの内部で進む、ユングの6つのアーキタイプ的な説明だとビナーはグレートマザーのようなもので洞窟みたいなイメージで想像することもできるし、ナグ・ハマディ文書で言えば、湿潤なるフィフスというような気持ち悪いとぐろを巻いた蛇のような表現もしている。

7段階の創造のプロセスは後に行くに従って、陽原理としてのコクマー的なものはどんどん弱くなる。弱くなることでより物質的な小さなものにフォーカスが当てられていく。大げさなものに見えてくるというか拡大されてくる。ちっちゃいことがまるで大きなことのように見えてくる。

実際人間の世界は地球上で細かいドットの形のようにひしめいている。巨大な宇宙からすれば非常に小さな世界じゃないですか。こういう風に視点が細かいところに入っていって、それによって小さいものが拡大されていくのがあたかも創造しているみたいに見えてくる。

女帝のカードから始まったビナーの活動はどんどん限定された方向に向かっていく。限定された方向とは、1なるものが二極化して分割されて行ってどんどん割られて細かくなっていって…ということ。

先ほど説明した恋人のカードの運命の門とは

人間にはそれぞれ個性があって、自分だけの人生の方向性があるんだって風に考える。非常に多くの人がそれを求める。自分だけにしかできないもの、自分だけの人生の傾向とか、私だけっていうか、個別性というか、ほかの人とちがうってところのものが欲しいじゃないですか。

限定性に向かうというのは明らかにビナーの母親の作用。創造のプロセスはどんどん下に向かって進行していく。進行すればするほど程限定的な存在に変わっていく。

人間とか思考とか感情とか精神的な部分では個別性とか個性とかほとんどない。わたしっていう意識をするためには、肉体っていう、身体はここにしかないですという風な限定化がされないと、私、個人は認識できない。身体じゃなくて、もっと感情とか思考とかの部分だと、実際、固定化されてないし、いろんな思いとか思考が流れ込んでくるので、個人として所有できる専門の思考力とか感情の力ってないじゃないですか。もう空気とか水のように流れ込んでくるみたいなものをとりあげて、わたしが考えました、とかって言うんだけれど、全然自分が考えたんじゃなくて、流れ込んできてるだけで、またほかのところへ流れていく。

それに対して、個体、肉体はここにしかない、みたいに思いますから、肉体を中心にして、そこを基盤にして考えたら、わたしが思ったり、わたしが行動したりっていう風に思えるわけです。

こういう個別化の方向っていう創造のプロセスはビナーとティファレトの間の運命の門としての恋人のカードにも随分と関係すると思うんです。6の数字のラバーズのカードには自分の選択権がないって風にほかのとこで説明したのですが、

実際にビナーって右上のものに対してティファレトの個人ですね、基本的に選ぶ権利がないっていうか、一方的に押し付けられてる状態と考えるといい。それがマルセイユ盤のラバーズのカードの上の方に小さい天使がいて、矢を射ようとしていて、下のほうでは男の人がいて、女の人がふたりいて、話をしているみたいな光景なのですが、それとはおかまいなしに、上の天使は一方的にどこかに矢を打ち込もうとしているみたいな感じなんですよ。ここでは選ぶ権利がないみたいなところがあって、ビナーのほうからそのまま限定化した方向っていうところにどんどん進んでいくみたいな方向性じゃないかなと思うんですよ。

限定性の狭まっていく方向、それに対してバランスをとる機能としては、ちょうど鏡のように左右反対側の皇帝のカード、守護天使の門。こっちのほうが機能してくれないと、なかなかはまっていったせまい路地から抜け出しにくいってことだと思うんですよ。

人間って両方とも必要じゃないですか。じぶんにとっての個性的な限定性な方向性も欲しいし、そういうところから抜け出したいというのも必要ですよね。タロット占いで、皇帝のカードじゃなくて、恋人のカードが出てきたら、そういう限定方向ていうところがクローズアップされているんだと考えていい。

ラバーズのカードの結びつき、三角形が三角形と結びつくのは、必ずしも人だけじゃなくて、つまり、恋愛とか異性関係ではなくて、環境もある。職場とか、住む場所とか、そういうものによって、その人の人生の方向性がはっきりしてくる。より限定された方向性を持ち始める。

マルセイユ盤の恋人のカードの場合、男の人がどちらかの女の人を選ぼうとしているような光景が描いてあるじゃないですか。で、このふたりのうちのどちらかに決めるとすると、もうひとりはどうなるかというと、見えないところにそれが隠れていくということになるのですが、見えないところに隠れていったからといっていなくなった訳ではない。つまり、ひとりは裏に回り、ひとりは表に配置されました、ということ。 今度はつぎに反対側を選んだ場合、片方は表に、片方は裏に回りました、となり、人数は基本的に変わらないということ。

クラスターの発想としては、大きな自己があったときに、大きな自己ひとつというのは小さい7つの人格に別れる、みたいな発想で考えてもいい。プラトン年とかプラトン月とかプラトン日とかそういうところの場合は7つというよりちがう比率になっていましたが、基本的には1個のものが、オクターブとして7つに分かれて、この7つのうちの1つが、また7つに分かれる。太陽が7惑星、惑星のひとつに7つの月、実際の場合には地球には月はひとつしかないのですが、オクターブのひとつひとつの音階の中には、さらに7つに細分化されますよ、という理屈がある。

そういうところから言うと、いま、自分が生まれてきた時にあるキャラクターというか、人格とかある性格とかある場所、ってところで、個性的な形で生まれてきて、そういうときに同格の自分と同じような、人生、キャラクターは違うと思うけど大きく言えばひとつのもの、ひとつの大きな自己が割れて7つになったんですよ。

で、ほかの6つは、なんかちがう場所とか、ちがう時代にいるという風に考えてもいいと思うんです。7つのうちの1つがクローズアップされて、それが、いま、ここの私です、っていう感じ。

つまり、そこをクローズアップしてるだけで、重要頻度そのものは7つ、均等。こういう場合に、今、自分が生きているときに、それ以外の6つというのは、同時に大きな自己と繫がっていますから、信号とか情報は入ってくる。それを今の人格というのは、はっきり意識はできない。みることはできない。

なぜかというと、同じレベルなので。同レベルのものっていうのは、当然おたがい弾き合うからそういう情報が入ってくることはないんですけれど、それらを結び付けている大きな自己の部分、7つを全部集合させているもともとの大きな自己のところには、常に情報が共有されているってことですよね。

人生のドラマを作るために7つのキャラクターがいろんな配役を演じたりすることがあって、で、たとえば自分にとっての敵になってる場合がある。つまり、今の私って人格に対して、ほかの6つのうちのどれかが自分の敵対関係になっていて、人生の中で影としていろんな人に投影されて現れてくれケースもある。

こういう風に考えた場合、ビナーとティファレトの間の恋人のカードの運命の門というのは、ある方向の人生を選ぶとか、二人の女性のうちの一つを選ぶというのは、片方が消えていくわけではなくて、ちゃんと裏に回って、そこでなんらかの役割を続けていく。

大きな自己からすると、どれも選んでなくて、数は減りもしない増えもしなくて、ちょっと駒の配役の位置、置かれた位置が変わってきました。入れ替えましたというだけの話。たとえば、バニングが言ってるような、正しい道と間違った道のどちらかを選ばなくてはいけないといってるんですが、実際に全部取り込んだものが大きな自己の一つです、と考えた場合、正しい道とか間違った道はじつは全然ないんです。

色の違う7種類の人格があって、それをぜんぶ足したら無色透明のひとつの、大きな自己としての私に戻りました。で、異性関係って場合、男性、女性っていう大きな自己をいくつかに割ったときに、当然異性のものとして別のものが現れてくる。

そのへんは、全部ビナーの中から取り出されてきたもの。ビナーの洞窟、この中に7つの人格があって、それぞれ配役を決めて、今回、7人のうちのこれが今の人生の私です、って言う風に決めたときに、こんどはそれと関わる異性っていうのは、ほかの6つのうちのこれとこれにしましょうって決めて、さらに、候補Aと候補Bのどちらを選びますか?

全部の配役はビナーの中にあって、これはさっき言った女帝のカードですよね。生産性とか創造性とか、そういう作用によって、7分割、7つできたものであると考えてもいいんです。

なので、ラバーズのカードで、どちらかを選んで失敗しましたー、とかこれで成功しましたー、というのはなくて、で、あるのは選んだことによって、方向性がこういう風な特徴になりましたよ、ってだけなんです。反対側を選べば、特徴としてはこうなりましたよ、ということで、どっちがいいという訳ではない。

よく占星術の鑑定でアドバイスを求められるのですが、そういう時にこっちを勧められてよかったっていう話を聴いても、選択に正しい、間違っているというのはあるわけではなくて、あるかのように見えるとしたら、まず、正しいとか正しくないという判断は一体誰が決めてるんだ?ということを先に考えた方がいい。

いい人生とか悪い人生とか言っている場合、いい、悪いを決めている評価基準ってありますよね。その評価基準からしてよかった、悪かったという話で、その評価基準を変えてしまえば意味として逆転するわけですよ。

たとえば、けがをしました、と言った時に、けがをしたのはよくないなと思ったとしてもですね、けがをきっかけにして、なにか人生が大きく転換していって、その後、楽しい、面白い展開ができました。よかったです、ってみたときは、けがをしたっていうのは、いいきっかけを作り出してくれたって話に変わっていきますよね。

もともと良い、悪いって物事の価値観を二極化させて、片方だけで考えているっていう風な、狭い発想のことを指していて、これはいずれタロットカードのプロセスで言うと太陽のカードあたりで、或いは、その前の塔のカードあたりで、うち破られなくてはいけない種類のものですよね。で、マルセイユ盤のラバーズのカードの男の人のように、どちらの女性を選ぶかってシーンとしては、どちらを選んでもいいし、選んだ段階で片方が裏の配役、片方が表に配置されます。

そういった違いがあります。その結果その後のコースには違いがありますよ、ってことだけが言えると考えてもいいと思います。

以前、ふたりの女性をリリスとイヴという風に結び付けてしまった時期があるんですよ。イヴの方は、地上的な、地上において子孫繁栄させるような方向性を持っている女性ってことです。リリスっていうのは、空中に逃げて物質的、地上的な繁栄に加担しなかったっていう方向です。地上に受肉していない性質ってことで、キリスト教の世界では空気の中に棲む女悪魔みたいな言い方になってまして、中世では、男性を夜中ひとりで部屋に置いといてはいけない、リリスがやってくるからだと。

ラバーズのカードはビナーっていう根源原理とティファレトという人間の間のパスですから、ティファレトに向かっていくのはイヴであって、ビナーの方向に逆流させるのがリリスの方向っていう風に説明しました。

これは物質化していく地上的な方向の人生か、それともそうじゃない方向に逆流させていくようなものなのかっていう話なのですが、
産めよ増やせよという風な世界で考えれば、当然イヴを選ばないといけないし、リリスの方を選ぶと生産性がなくなっていく。

ナグ・ハマディ文書を読むと、イヴってそんな単純なキャラクターではなくて、アダムを騙すために作られた人造のソフィアの分身であると書いてある。アダムは眠りこけているバカだ、そんな感じの説明です。

恋人のカードはそのように選択をせまられているんだけれど、上の天使が結局矢を射ってしまうのだから、なんだかんだ言っても自分の選択では選んでなくて、ある方向に仕向けられました、みたいな感じの絵柄にうつっている。

この配役すべてがビナーの中から出てくるクラスター仲間というか、大きな自己を7つに割ったものっていうところで
べつにどれを選ぼうが、どういう風に転ぼうが、すべてある種の経験の流れである。

経験の流れに、いい、悪いはなくて、悪い体験や不幸な体験も体験のひとつだし、楽しい体験も体験のひとつである。学習するとかっていう風な発想でいえば、いいのも悪いのも全部体験しないといけない。その前にいい悪いっていう発想はどこから来ているのかをもうちょっと考えていてくださいねって話。

大きな自己と7つに分割されていた小さい人格というところの違いは、もともとの大きな枠組みとしては歳差活動で恒星の力、北極星の力から地球上に降り注いできた魂みたいなものがあるとして、ひとつの恒星の力というのは26000年周期の歳差活動で、おなじ起点に戻る。

神智学とか人智学の発想で言えば、この26000年を12個に割って、プラトン月ひとつを2200年単位と想定するんですよ。で、2200年の寿命をもっているという人間はいませんから、これは集合魂みたいな形で考えていけばいい。人智学とか神智学ではこの2200年を12個かけるのではなくて7つかけることで、ひとつのクラスターのひとつの地球上での経験を終了する。

2200年単位を30個で分割して、1か月の中の30日、プラトン日がひとつ72年ということになりますよね。これは人間の一生に近いので、個人のアイデンティティ、視野、フォーカスはこの72年単位を基準にしていると考えてもいいのです。

26000年の魂と、2200年単位のもの、72年単位のものはそれぞれ振動密度が全然違う。みんな自分なので、どれかってところに合わせるのは可能なんだけど、いまの私たちの個人としての意識は72年、さらに小さいところですよね。土星サイクルで言えば29年で、社会的な立場とか考え方とか人としての生き方はどうのこうのって考えているあたり、72年単位よりもっと分割された29年単位の発想って風になるんですけども、もしここで、同調する素材というか環境というかそれを変えてしまえば、むしろ2200年の方に同調することも可能。72年単位を30日分集めたような、もっと非個人的な非常に大きな私っていうか大きな自己のリアリティ、そこに入ることができる。

こういう時に、マカバっていう、上からみたところの正四面体と反対側から、下から上がってくる正四面体の結びつきがマカバなんですけど、横から見たら、6角形ですよね。上の意識の三角形と下から上がってくる環境の三角形の結びつきという風に考えて、これ自体がすでにラバーズのカードという風に考えてみてもいいんじゃないかと思うんです。

だから72年型意識っていうか、人間型って形で生きている私たちっていう場合はですね、さっき言ったように6角形というのは、素材の大きさに、同じ大きさになってしまうんです。
だから、小さなものに合わせてしまうと自分が小さくなる。

72年単位の非常に小さいサイクルですよね。2200年単位からみると、まるで蝉のように寿命の短いような、そういうところに入りこんだのは、そういう素材と結びついたということですよね。より、振動の低いというか物質密度が濃くて、振動密度が低い、そういうところの素材に六角形的に結びついた。

だからもし、もっと大きな、2200年単位の素材というか、より振動密度が高くて物質密度が低いような素材の三角形っていうのと結合すると、意識の方さえ準備ができてれば、そちらの方に拡大することも可能。

つまり、サイズを決めるものっていうのは、ぜんぶ素材の振動密度によりけりなんじゃないか、当然自分に相応しい振動密度の素材ってなるのですが、サイズを決めるのは下から上がってくる三角形である。

マカバは人間の結晶体をあらわしていて、マカバが出来上がると記憶を失われないってことですよね、天変地異が起きたときにごっそり記憶がなくなるのはマカバがない場合で、マカバを作っていれば、なにか大きな事件が起きても記憶がそこで途切れることはない。素材の三角形は下から上がってくる三角形で、それは環境の中からとってきて、意識がそれに馴染んでいって意識にとって精密な反射機というか射出したものをちゃんと返してくるというか、そういうところの調整がされると、6角形が結晶として閉じる。

ところが、馴染んでいない間は、環境から上がってきた三角形がなかなかコントロールできないうまく扱えない。生まれてきたばかりの赤ちゃんがうまく自分の体が動かせなくて、ちょっと腕を動かそうと思ったら行き過ぎてバーンと壁を叩いてみたり、歩こうと思ったのにこまかくちゃんと制動できないというか。そういう場合、素材をまだうまく乗りこなしていないということですよね。

で、完全にこれが調整されて、うまくいくようになったら六角形ができて、同時に環境に留まることができなくなるということだと思うんです。

完全に結晶が出来上がってしまえば、そこの環境に留まる意味がない。シュタイナーの人智学だと2200年単位の長さの7つの文化期というのがありまして、それぞれの文化期は素材の扱い方っていう素材のレベルが違ってくるんです。

今の文化期が第5文化期で、だいたい室町時代くらいから始まった2200年で、あと残り1500年くらいはあると思うのですけども、それはですね、アストラル体をコントロールするのがテーマだって言ってるんです。そうすると次の第6文化期が、エーテル体をコントロールする文化期で、第7文化期が物質をコントロールする文化期で、神人が神の人という風に書いて、だってそういう時代だって説明がしてあるんですよ。

これは、つまり、六角形のマカバの下の素材に関係していて、現代であれば、三角形はアストラル体になりますよね。

実際に現代の発想だと、現代よりはわりと古い発想なんですけど、人間が死んだ場合、肉体から抜け出して当然肉体は灰になるんですよ。その上にエーテル体がありますよね。しばらくはエーテル体の中に棲んでるんだけども、それをやがて脱ぎ捨てるんですよね。エーテル体を脱ぎ捨てる、肉体を脱ぎ捨てる、っていうのはなんでかって言うと、素材としてコントロールできないからなんですよ。

つまり、自分自身を維持するのに対して、肉体っていうのとエーテル体は素材が重すぎるので、それに長くかかわりすぎると自己喪失を起こす、っていうか結晶が破損する、つまり六角形ができない。で、私たちは今生きてる時も、肉体とかエーテル体を保ってるわけなので、ある程度距離を保った形で、仮止めみたいな形でそこに乗っかっているという風に考えるといい。

現代の第5文化期においてのテーマは、アストラル体という下の三角形をコントロールするっていう形になるので、肉体とエーテル体をコントロールするってのは後の時代で、たぶんその時代には死んだ後にエーテル体を脱ぎ捨てるってことをしないと思うんです。今の時代だけが肉体とエーテル体を切り離す。でも、第7文化期だと肉体も捨てないんです。それを伴った形で結晶体としてのマカバができる。

柳田國男とかが言ってるような、東北の文化の死者は家の近くにいて、山の上にいて家族を守っています。とか、ときどきそういう死者と出逢います、というのは、土地にずっといる死者ってことですよね。

どちらかというと、第6文化期のエーテル体というものを伴ったところでの生存形態の形。
だいぶん未来的な話。一見すると死んだ人がニルヴァーナしないで天国に行かないで、地上を彷徨っているというのは浮かばれないようにみえるじゃないですか。実際にそういうことで生存が可能であえば、それはずっと未来的な、第6文化期の話であるってこと。

で、アストラル体を自由に乗りこなすようなマカバという場合は、かなり軽い感じでそんなに物質的な感じではない。幽体離脱をするときはそれに近い感じじゃないか。実際に私がある星に行った時に、行き帰りにもの凄く軽いグライダーみたいなものに乗って地球に戻ってきたという、幽体離脱の体験をしていたのですが、マカバだと思うんですけれど、それは、アストラル体を通じて飛んでいくという意味ですよね。

アストラル体は動物質を借りているので動物に例えるといいのですが、動物の上に乗っかっているようなイメージで考えてもいいと思います。マカバは下の三角形を女性の正四面体、上の三角形を男性の正四面体という風に呼んでいて、マカバにいろんなサイズがあって、意識の範囲によってマカバのサイズ、たとえば、22000年単位の意識といった場合は、巨大なマカバになっていくと思うんですよね。それから、72年単位の、個人としての、人間としてのマカバと言った場合は、メルキゼデクが言うような、全長17メートルくらいの円盤みたいな形のものになっていくと思うんです。

ラバーズのカードというのは、そういう結びついた素材ってことをあらわしていて、当然結びついた環境因子っていうなにと結合するかによって、発生する知覚現象というか感覚というか見えるものとか体験することって全部ちがうじゃないですか。

どれかの環境三角形にくっつくことで、その後の人生っていうところに入ってくる印象が全部違う。
これは必ずしもマカバができるってことを指していなくて、マカバができるってことは、素材の三角形が完全に調整されましたということ。つまり、六角形として結晶化しました。

ラバーズのカードはそういう結晶化しましたじゃなくて、環境因子の反対側の三角形を選びましたという段階ですよね。だからこれから非常に長い時間をかけて環境の三角形を子慣れさせていかないといけないということ。で、地上生活においては、マカバの素材の三角形と結びつくということは、異性関係と重なってきやすい。

異性関係で相手とくっつくことで、人生が、その方向が決まりますよ、ということ。マカバが重ねられている。だからその相手の異性に対して自分の中にあるものが投影されて、さっき話した、大きな自己の分割ですよね。そういうものが投影されているだけってケースが多い。じぶんの中にあるものを相手に投影している結果、相手のことを正確に認識していないかもしれないんですよね。似てるからといって、同じものとは限らない。

こういう場合、地上において相手の三角形を異性に託すって風な時に、  異性の方が重要なのか? それとも、もともとのじぶんのマカバ作りが重要なのか?一体どっちなんだ?というのはよく考えた方がいい。

誰か人間に乗っかったというか、伊勢神宮のアマテラスは倭姫に乗っかって、倭姫は地上をウロウロして、最後に伊勢神宮を決めたんですよね。そういう形で、よりわらとかみつえしろとして人間の肉体を借りてその上になにかが乗っかるという風に考えた時に、相手の人間に自分の原型的な7つのうちの1つを乗っけてるに過ぎないかもしれなくて、相手がそれを居心地が悪いと言って途中からそれを脱ぎ捨てる場合もあるかもしれないんですよ。

純粋に地上生活をメインにして、魂の部分というか、そっちの方をメインじゃないと考えた場合は、もう投影してるかしてないかごちゃごちゃ考えないで、物質的な見えるままで相手との異性との関係に集中できると思うんですよね。

六角形というのは、ターゲットに自分も合ってしまう、同じ三角形のサイズになってしまうというところで言うと、こういうなにも考えないで純粋に異性との関係を生活者として暮らすという時は、自分の三角形もそれになっていく。6角形の恐ろしさというものがあって、選んだものによって、完璧に自分も同じサイズになっていくことなのですよ。そこから脱出はできない。

デリーボーネルの学校で教えているインストラクターの人で、なんか前世は何べんも自殺していたという人がいて、そういう場合、六角形をチャラにしたいというか、一遍選んだんだけれどもやり直したいという発想が出てきたという可能性はあると思います。

マカバが中心という発想からすると、相手になにかを託したとしても託してるだけであって実態は自分の方にあります、と考える訳ですから、たぶん相手に過剰に期待はしないと思うんですよ。

グルジェフはよく自分が習得していないものはそれを詳しい人から盗めという言い方をするのですが、それで言うと女性要素、或いは男性要素とか環境要素とかっていうのは、そういうものから段々そのやり方を盗み出していくっていうか、憶えこんでいくというか、こういうやり方をするんだって風に学習をしていって、で、最終的に自分のマカバっていうか、六角形の結晶を完成させる方向にテーマとしては仕向けていく。

実際にマカバっていうのは、光の戦車という風に訳されて、どっかに飛んでいく様に見えるんですが、実際はこの六角形の意識と環境の三角形の結びつきっていうことで同調するって意味ですよね。

ある世界に入るってことはその世界に同調することであって、具体的に空間的にそこに飛んでいくということはあまり考える必要がない。さっきも言った六角形というのは、環境の三角形によって片方の意識の三角形もそれに完全に支配されてしまうってことですから、ふつう飛行機でどこかに旅をするというイメージだと、自分は変わらずに環境だけが変わるみたいに見えるじゃないですか。

自分は飛行機の中にふんぞり返っていて、ずーっと飛行機が十何時間くらい飛んでると、やがてエジプトに着きました、みたいな感じですよね。そういう時ってあまり自分が変化しないってことですよね。

なんだけど、この六角形のマカバって言った場合は何かに同調した時に自分の方が変化して、それにピッタリ嚙み合ってしまうってことなんですよ。 だから、リアリティの変化って風に考えればいいんですよ。

なので、飛行機のようにどっかに飛んでいくって意味じゃないですよ。タロット占いとかで使う場合はこういう六角形の環境とか相手との結びつきによって人生が変わっていきます、ってところをもっと小さい範囲にまで応用する必要がありますよね。

たとえばわたしとかは引越しをすると、仕事とかやる事も変わるよ、という風によく言うんですけれど、こういう環境の風土とかとか雰囲気とか引越しで変わってしまうと頭の中身って創造する事って言うのも変わってくるじゃないですか。

あと、食べ物ですよね。なにを食べるかによって考えることっていうのは変わってくるし、関わる相手とか、恋愛関係だけでなく、友人関係とかグループ関係とか、そういう事によっても変わってくるじゃないですか。

そういうところのすべてをこの恋人のカードは示しているのだと思います。ふたりの女性がいて、ひとりはリリス的な女性っていうことなのですが、こういうリリス的な女性と結合するというのは、あんまり物質的じゃないところの素材を選んだという考え方も成り立たないわけではない。

シュタイナーの言う、7つの文化期の中の第6文化期ですよね。だいたい今から1500年くらい後から第6文化期なのですが、そこではエーテル体の乗り物を環境三角形として選ぶということなのですよ。今の基準からすると、エーテル体を素材にするのもかなりとんでもない話なんですよ。

今の状態はアストラル体としての感情衝動に対してもコントロールできないし、完全に受動的ですよね、つまり、やる気がなくなるとやらなくなるし、気が乗らなくなると止めてしまうというのは、完全にそういう気分とか気持ちとかに受動的に振り回されてるだけじゃないですか。

環境三角形に翻弄されて何もできなくなってるって感じですよね。

さらにエーテル体は素材が重いんですよ。アストラル体どころか。そこがコントロールされるっていうのはとんでもない話なんだけど、リリスは空気の中に逃げたっていう伝承からすると、空気はエーテル体の振動にかなり近いレベルのことを説明しています。

占星術でいうと月ですね。動物磁器が96で、空気は192なんですけど、月は両方に跨っているような状態です。

リリスを環境三角形として選ぶっていうことは、自分の意識が反射機として下の三角形として、エーテル物質を選びましたっていうことを指していまして、そういうところでの印象が入ってくるってことですね。イブを選んだ場合の物質的な肉体を反射機として選んだ場合は、みんなの普通の意識しているような普通の生活、いま、この世界みたいな感じなんですが、同時にリリスと結合した六角形というのも、

両方とも共存しているというか、両方ともありなんじゃないかと思うんですよ。なので、男の人がひとり立っていて、左右にイブとリリスがいるという場合、片っ方を選びましたと言っても、もう片方を切り捨ててる訳じゃなくて、単に片っ方が目の前にいたら、もう一人が後ろにいますよ、ということだけで、二重的に両方関わっている。

エーテル体との結合したわたしっていうところを、ほかの人よりはより積極的に使っている人もいれば、また、消極的に夜寝ている時に、チラッとそれが出てきただけだ、という場合もあると思うんです。いずれにしても、片っぽだけを選んでる訳じゃないよ。 意識がそんなに狭く考えなければ、実際は片っぽ選んだときには、反対の意味でもうひとつを選んでます。

地上においては人間の人格は二極化されて、片っぽだけをつかんでる、意識化してる生き方をしているんですよ。

片っ方というのは、忘却の彼方というか、意識の裏側に回ってくるってことなのですが、これが太陽のカードあたりで両方とも表面化してくるってことですよね。そうすると、ラバーズのカードで片っ方だけを選んだわけじゃなかった、表と裏に配置しただけだったという風なことに気が付くと思います。

裏側に回ったものっていうのは人生の隠し味というか、ときどき敵になってみたり、或いは、アーノルド・ミンデルのいうような大いなる自分からのメッセージですよね。伝達者として働くという、伝達屋になってみたり、邪魔してきたり、隠し味的な作用を働かせてくる。

それは自分には関係ないって風に、切り離す姿勢があるとすると、態度そのものが人格をより狭くしている、狭めていくんですが、恋人のカードは運命の門でその人の限定された方向性の人生を作りますよというところからすると、狭くなればなるほど、その人の人生のくっきりとした輪郭があらわれてくる。

このへんの裏表の多様性を意識したうえで、ラバーズのカードを考えてみると面白いと思います。






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